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パラグアイの熱帯に深く根を張る小さな日本社会に感謝と敬意を【2023年4月】

パラグアイの日本人コロニーと伝説の日本人宿「民宿小林」訪問記

4月初旬にブエノスアイレスに到着し、アルゼンチンから南米旅を開始。4月下旬に3泊の予定でイグアスの滝観光をしていたところ、現地で知り合った日本の旅人から、パラグアイの日本人コロニーと「伝説の日本人宿」なる情報を得て急遽予定を変更。ほんの少しパラグアイを覗いてみることにした。【イグアスの滝や日本人コロニー行きのお役立ち情報は次の記事にまとめる予定☆】

イグアスの滝からパラグアイへ入国

轟轟と凄まじい音を響かせ人間の想像力を超える水量が「地球の段差」から流れ落ちるイグアスの滝。ブラジルとアルゼンチンの国境をなす約3キロにわたる馬蹄形のその段差には、最大80メートルの落差を有する275もの大小の滝が途切れることなく並び、天に向かって盛大な噴煙(しぶき)をあげながら大地に落ち続けている。近年では年間200万人近い観光客が訪れる。ここで、人は小さな蟻のごとく、神の創造物に列をなして歩く黒い点でしかない。飲みこまれれば一瞬で体は消え微塵になるのだろう。まさに天国と地獄の両面を見るようだった。

ブラジル側から見たイグアスの滝

イグアスの滝から流れ落ちた赤い濁流は、イグアス川となり、アルゼンチンとブラジルを結ぶ橋の袂を通り過ぎ、すぐにパラグアイの国境線であるパラナ川に合流する。この地点で、ブラジルとアルゼンチン、パラグアイ3国の国境が重なる。このT字の川沿いに、アルゼンチン側はPuerto Iguazu(プエルト・イグアス), ブラジル側はFoz do Iguazu(フォスドイグアス)、パラグアイ側はCiudad del Este(シウダッデレステ)と、3つの街が肩を寄せ合っているのだが、とりわけパラグアイのCiudad del Esteは、首都アスンシオンに続く大都市で、他の国境沿いの街よりも人々の生活の匂いに溢れ、住人、商人、学生が通りを歩き、観光客はほんの一部であるにすぎない。国境を越えたすぐの通りには日用品を販売する露店や商店が隙間なく数百メートルも続き活況を呈しており、雑多だが賑やかで明るい雰囲気を放っている。一方で、バスターミナル近くの新しくきれいな大型スーパーには大量の商品が整然と並べられ、ワインは壁一面に敷き詰められ、しかも格安でそれらの食料が手に入る。今日も律儀にインフレに励む格安のアルゼンチンで2週間ほど滞在した後でも、その物価の安さには驚かされた。

民宿小林

「伝説の日本人宿」と噂されるこの民宿は、日本人コロニー Colonia Yguazúの中心地からは数キロ離れたところにある。初日は村には寄らず、Ciudad del Esteから直接民宿に向かうことに。

到着当日から、奇跡のような展開だった。

Ciudad del Esteからアスンシオンに向かう長距離バスに乗り込み、農地しか見えないような道の途中で降ろしてもらうと、突如ニッカポッカを履いた日本人らしき男性が車から降りてきた。エッ!? 

到着予定時刻からすっかり遅れていたにもかかわらず、バスの運転手から連絡があったとのことで、ほんの3分ほど歩けば着く距離に、車で小林さんの息子さんが迎えにきてくれたのだ。

民宿へ向かう道はレンガ色に赤く染まってまっすぐ延び、その両脇にはキャッサバ畑、トウモロコシ畑、大豆畑が緑の海原となり、地平線まで続いている。これまで見たことがないような美しい景色だった。

赤土が印象的だ

アルゼンチン国境からの移動やハプニングで疲労と空っぽの腹を抱えた我ら旅人。事前に連絡し、用意してもらったお昼をいただくことに。

民宿小林、という通称であるものの、実際はシンプルなコンクリ作りの広い邸宅で、自宅の大部分を民宿に開放している。日本的要素のない大きく立派な建物だ。レンガ造りのキッチン兼食事処に入ると、白米ごはん、お味噌汁、納豆、生卵、新鮮キムチ、鮭の切り身、刻み生姜入りのキュウリの即席漬け、梅干し、がテーブルに並べられている。私はまだ日本を離れて3週間ほどで日本食が恋しいなどこれっぽっちも思っていなかったはずが、目の前にこれを並べられたら、、、、嬉しくて大歓声を上げてしまった。

いや。正直に言うと、実際はそうした感情の前に、目から入る両極端な情報-パラグアイの完全に異国で熱帯の人・家・空気のあらゆるすべての要素と純和食のごはん-に脳の処理が追い付かず、混乱した気持ちでいっぱいであった。その感情を経て、お味噌汁、ごはん、キムチ、梅干し、、、とひとつづつ噛みしめていき、ようやく歓喜の声が出たように思う。どれもこれも、美味しい!

今回、お昼は特別に用意していただいたが、この民宿で朝と夜は基本食事つきとなり、それも毎日お腹がはちきれるくらいの日本食とデザートつきである。みんなから「お母さん」と呼ばれているかつえさんが朝夕せっせと家庭的な食事を作ってくれる。新メニューの考案もしているようだし、なぜこれがパラグアイで食べられるんだ?!という日本食も登場するけれど、毎回いろいろ違うようなので行った方のみのお楽しみ。洗い物、片付けはゲストの仕事。宿泊代も食事代もパラグアイ基準で考えても安く、支払いをしてもやはり申し訳ない気持ちになるほどだ。

宿は2008年にオープンして、夫妻で頑張って来られたのだが、昨年に旦那様が亡くなり、現在はお母さん(かつえさん)と息子さんで切り盛りをしている。日本ならば「邸宅」と呼びたくなるような家の作りだが、現地仕様なので、水が時折止まったり、電気が弱くなったりする。それでも、ドミトリーなのに、大きくてクッションが固くて清潔なベッド、広い部屋を用意してくれて、真ん中のへこんだ薄汚いマット付きの狭いドミトリーからやってきた旅人を優しく包み込んでくれる。

恐らく、ここまでですでに伝説、と呼ばれるに値するのだが、、、

私は、伝説の本質は、日本人コロニー全体と深く結びついているような気がする。

ひっそりと佇む日本人コロニー   Colonia Yguazú

Ciudad del Esteからバスでゆっくり一時間、約50キロメートルほど西へ-アスンシオン方面に-向かい、緑豊かな丘陵地を横目にしばらく走ると、1960年代に日本人が開拓した密林の中の集落、そして現在は一大農地が周囲に広がるコロニア・イグアス(Colonia Yguazú)に到着する。ちなみに、「イグアスの滝」はスペイン語で“Cataratas de Iguazú”と表記されるが、名称の由来は、グアラニー語のYguazú(大いなる水)にある。パラグアイの公用語はスペイン語とグアラニー語で、滞在中もかなり頻繁にグアラニー語が聞こえていた。小林さんの息子さんは、日本語、スペイン語、グアラニー語を話す。

コロニア・イグアスの村は、現在、登録住民人口1万2千人ほどで、うち7%(900人)が日本人移住者とその家族ということになっている。確かに、通りで日本人とすれ違うことはあまりなく、日本食を販売するスーパー(農協)で見かける程度だった。日本人でもそうでなくても挨拶をすれば笑顔で返してくれる距離感の住民の方々だ。村に入ると、鳥居が入口に立つ大きな公園に迎えられ、その左側に日本人会の立派な建物が、右側には移住資料館(正式には、イグアス日本「匠」センター)が建つ。到着の翌日、この資料館で園田さんという「有名人」からジョークを交えながらパラグアイの移民の歴史をうかがった。

イグアス日本「匠」センター外観

このコロニーに日本人が移住を始めたのは1961年。しかし、パラグアイで最初の日本人コロニーは、コルメナ(La Colmena)という土地で、イグアスよりずっと以前の1936年に設立された。コルメナにはすでにパラグアイ人が住んでおり日本人は後参者であったことや、二つの大戦(チャコ戦争と第2次世界大戦)にも翻弄され、日本語禁止や日本文化を禁止された時代を生きて、特別苦労したようだ。そして、1961年、このコルメナから一部の日本人がイグアスに移住してきた、というのが始まりとのこと。その後も他の移住地から移ってくる日本人がいたようだ。資料館には移住、開拓当時の写真がいくつか展示されているが、そこには広大な密林が延々と続く大地を開拓する様子が映されている。当初は、斧や鍬一本で切り開いていったというのだから到底マネできるような努力ではない。

展示物:日本人コロニーマップ

そうして現在、私が目にした村の姿は、幅広い舗装道が美しい並木とともに碁盤の目状に通り(舗装された二車線のメイン通り以外は赤土の見える砂利道だが)、広い敷地と熱帯の植物に囲まれた家が並び、銀行や複数のスーパーもあり、その周囲は地平線まで農地が広がるような肥沃な大地に囲まれている、のどかで豊かな熱帯の町だった。さらに、鳥居やところどころにみかける地味な日本語の看板を見逃してしまえば、一見日本人コロニーだということにも気づかないくらい溶け込んでいる。

ちなみに、パラグアイに日本人コロニーを作る上で、住民の三分の一はパラグアイ人とする、というパラグアイ政府との協定があったようだ。最初の住民は、移住した日本人とそこで労働者として雇われたグアラニー語を話す人々だった。パラグアイにおける日本人コロニー設立の最盛期は50~60年代であったようだが、その後の急激な日本経済の成長によって移住の流れが止み、現地の住民が大半を占めるようになったという。

話しをさらに聞くと、数としては少数派の日本人が現在も、村の経済の8割を作っているというのだから驚きだ。農地の多くを昔からの日本人移住者が保有しているということや、日本人が現地の人を雇うという構図があるらしい。経済の中心に日本人がいる、というのはもう一つの見えない側面だ。それ故か、日本人会の建物も資料館も、日本食を扱う農協スーパーも、すべて村の中心(幹線道路からの入口)に位置している。

園田さんは、話しの終盤で、「皆さん一人一人、日本人の代表として行動してください」とおっしゃっていた。はっとさせられた。私自身、数十年前にはしばしば耳にしたことのある言葉だったが、もう長らく忘れていたフレーズだ。最近では、海外に行く若者にこのような言葉をかけることは少ないのではないだろうか。しかし、移民の歴史を聞き、パラグアイにおける日本人の位置、今のイグアスの村を作った人々の苦労、この社会で生きる人々の話を聞いて、その方々の努力を壊してはいけないと、身の引き締まる思いがした。

(ここに記載した村や移民の歴史は、園田氏の語りから抜き出しているつもりだが、誤りがあるとすれば、私の記憶の曖昧さによるものなのでお許し願いたい。)

村には他にも日本人宿が数軒、日本食を提供する食事処数軒、個人宅で豆腐や日本食を販売するなどもしているそう。また、曹洞宗の寺が村の少し外れにあり、現在はブラジル人の住職が任を務めている。当地の宿には、旅人だけでなく、近年パラグアイで永住権をとった人たちも滞在しており、新旧の日本人がこの村を今も彩っているようだ。

小林さん家族と日本人コロニー、パラグアイ社会から生まれた「伝説の宿」

宿は、村の中心地からは離れており、歩ける距離ではない。ローカルバスか車移動が必須となる。小林さん家族が村に出るついでにタイミングが合えば一緒に乗せてくれるというのが基本方針だけれど、結局、こちらの都合にも合わせたり、はたまた村まで迎えに来てくれたりもした。さきほど書いた、資料館で移民の歴史を伺うというプライベートなイベントも、小林さんから園田さんに連絡していただき、宿に滞在する6名ほどで向かったもの。行きも帰りも、息子さんの車にお世話になったし、帰りは1時間近く待っていただいた。別の日には、ちょっと買い物をするのに車に乗せてもらい、また別の日には、カピパラを飼っている移住者のご家族を紹介してくれて、ムツゴロウさん家のような素敵なお宅に入らせていただき、カピパラを愛で、そこに迎えにきてくれたりもした。

そのようなひとつひとつは、すでに『宿のサービス』などではなく、小林さん家族の気持ちでやっていただいたこと。また、園田さんの説明も、カピパラとご自宅を快く見せていただいたご家族も、伺っている私たちは何も金銭的なお礼をしていないので、やはり気持ちでしていただいたこと。これが毎回のはずだから、珍しく来た日本人を甲斐甲斐しくお世話してくれたということでは全くないのだ。

小林さんやコロニアイグアスの日本人の方々が、旅行者や新参者にこれほど温かく接してくれることの理由は私には分からないけれど、このような行動が、まさに、ここの日本人社会の人々のあり方なのだろう、と理解した。恩着せがましくない、自然体で余裕のある生き方、優しさ。そして実は、旅の途中、パラグアイ人の中にもそんな優しさをみることがあった。

パラグアイに入国してすぐの両替所、アルゼンチンではお断りの10ドル紙幣を数枚だけ両替したところ、脳みその処理が追い付かないほどゼロのついた紙幣を渡され驚く私。すると優しく微笑むお姉さんは、まず一番大きな紙幣を少し細かくしてくれた上で、小さい額の(それでも2000)紙幣を指して、これは果物を少し買ったりできるわよ、と教えてくれる。この世でもっとも機械的な接客を受ける場所のひとつは両替所だと常々思っていたところで、初めて人間的な温かみを感じた。もちろん、これだけではない。その後、長距離バスに乗り込む前に、大型スーパーに立ち寄ったのだが、入ってしばらく(日本人3人で)ウロウロと物価リサーチをしていたところ、「金額の見方はわかる?」と店員さんに聞かれる。怪しまれているのか?と思ったけれど、私が、「見方はわかるけれど、パラグアイの物価や、どんなものを食べているのか見たくて、、」と話すと、「じゃあ、こっちにきて」と惣菜コーナーまで案内してくれて、しばらくの間、いくつかのお惣菜を前に説明をしてくれたのだ。その間、仕事でやっているという素振りはなく、自然体で丁寧に説明をし続けてくれた。

また、アルゼンチンに戻る帰りのバスでも、こんなおじいさんと出会った。ちょっとしたきっかけで会話が始まり、昔コルメナに住んでいてね、、、とその当時の思い出を話してくれた(コルメナは、さきほど書いた、日本人がパラグアイで最初に移住した土地)。

「セニョール・タナカは、よくマンディオカ(キャッサバ芋)をプレゼントしてくれたなぁ。彼らは日本語とグアラニー語しか話せず、私たちはスペイン語で話していたよ。日本人は、わたしたちパラグアイ人が週3日休むところを、毎日懸命に働いて、財を成したんだ。私たちは、彼らに外の人間が指一本触れないように守っていたよ。」そう懐かしそうに話してくれた。こんな話をした後だったので、私はスマホを席に置いたままバスのトイレに行き戻ってきたら、おじいさんが「こんなことをしちゃいかんよ! パラグアイではスマホを盗むために人を刺すんだから、気をつけないといかんよ!」と叱ってくれた。優しくて力強い目をしていた。

パラグアイは、19世紀後半に起こった大戦(通称Guerra Grande大きな戦いと呼ばれる、三国同盟戦争)によって、国土を奪われ、大半の人口も失い、僅かに残った女性たちと外からやって来た人々によって国を再建するほかなかった。そして現在は、汚職にまみれた政府、貧しい国民、絶えない犯罪、脆弱なインフラがあり、また、移住者の間でも異なる県民同士での諍いがあったこと、当然ながら想像されるパラグアイ人との対立や差別など、簡単な美談にしてはいけない多くの現実がそこにあるだろう。歴史からみても、たくましくなければ生き残れない、それは明確なことに思える。それでも、いや、だからこそなのか、パラグアイに生きる人々、その小さいけれど重要な一端を担う日本人の移住者たち、両者がお互いを作りあげているのだと思えるほど、コロニーの内外で人間の優しさや穏やかさを感じることのできる土地だった。

かつえさん自身、「ここに残っている人たちはツワモノよ」「わたしの人生は波乱万丈!」と笑顔で言い放ち、そして「ここはパラダイス!」と締めくくれる、そんな女性でした。今は、MBLの大谷選手に夢中。

「伝説の日本人宿」と呼ばれる、民宿小林。何をもって伝説なのか、これは訪れる一人一人が決めることだけれど、私は、その言葉が大げさでも誇張でもなかったと素直に感じた。小林さん家族、イグアス村の人々、パラグアイの人々、この三重奏の中で生まれた「伝説」なのだというのが、私の結論。

パラグアイにまた行きたい。

最後に、ひっそりとnoteの端から、親切にしてくださった小林さんご家族、時間を割いていただいたイグアスの日本人の方々、優しく接してくれたパラグアイの方々、感謝と敬意の気持ちをおくります。

ありがとうございました!

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