みたものにたもの。

 自分が関わる公演が終わった途端ふぬけになって、反動でいろいろみにいきました。それは、たまたま遊びにきていた人や同居人と約束して出掛けて、みて、呑んで、語るという一連の作品を受け取る楽しさをエンジョイしていたのですよ。フランクリンの葬儀だって合間にあったし、悔しいとか苦しいとか、ちょっとまともではいられないくらい怒ったりした。神さまの胸ぐらをつかみにいくくらいの気分ではいた。人の無責任な言葉に傷ついたりした。でも、それはわたしが陥ってしまったかもしれない未来であって、さきにこう、指し示してくれたのだからありがたい。同じ無様を晒さずすんだわと、嫌いになれる。ちょっと、わたしは疲れているんです。たぶん。きっと。

 みたものは血肉になるのだ。

 痩せて細って、骨だけになったらわたしが誰かを抱きしめたくても、きっとその行為は、相手を痛めつけるだけだろう。柔らかなクッションを、誰かに感じさせたいのであれば、わたしが、わたしだけが、知っているすべてを、あなたに言う。

 面白かったんですよ。ここのところみたものすべてが。F/Tの公演をこんなにもたくさんみたのは久しぶりでした。最初はゾンビオペラで、ゾンビ好きのわたしとしては納得はできなかったんだけど、音、音として、すばらしい公演でした。目を瞑る自由もあるのにそれをできないで納得できなかった。それは自分の問題でもあるということは承知してましたがどこか、怒りが沸いたのはゾンビ観の違い。でも、もしかすると、わたしもこのように誰かを、知らない誰かを少しだけ痛めつけている可能性を想像し、自己嫌悪に近い気持ちだったんだと、今では思います。

 次に観たのは、なんだったけなー。なんだ。なんだったんだろう。きっとたくさん観すぎて混乱している。中学生が真夜中のファミレスで語るようにいいたいことを言い合って、みたものをなんども思ったように説明して、そういうことを楽しんでいた。それはあったことだ。たしか。で、思い出すと、いや、手帳を見れば一目瞭然なんだが、敢えてみない。そう、わたしはもう一度、歩き出している。その場所はどこだ。そうだ、チェルフィッチュを観た。初期の重要人物であった山縣太一くんと同じ舞台(『テンペスト』)に立って、いまの、チェルフィッチュを観たいと思ったんだ。ゾンビオペラで美術をやっていた危口君が演出していた舞台の、えーと、あれ、そうだ、灰野さんの、『奇跡』!奇跡、と森下スタジオでたまたま、たまたま、室伏さんのワークショップの大谷さんと桜井さんのダンスと音のワークショップに、行って、その打ち上げで出合ったのだ。一言も喋らないまま、ねじ君を観たんだった。チェルフィッチュの最新作でイチローのものまねのものまねを完璧にして、足首のあまりにも細い曲線にわたしが見惚れていたときに、蹴ったつま先の強さとか、部分でしか憶えていないので失礼だ。うつくしさの根源は何か。このあと牧神の午後をやるんでしょ。その跳躍は必要な約束ごとだから手放さないでいてもらいたい。

 太一君は、おなじとき、おなじじかんに、おなじように汗を流して、上唇を少し舐める。わたしはその汗の数を数えて、次の行動を決めた。おなじようにおなじふうにおなじことをできないとダメだ。わたしはそれが苦痛であった。手にとった体温はいつも同じで、役者とはそうして、同じように再現できる、再生出来る特殊な能力を持っている特別な人なのだ。わたし、これ、できないよー。と逃げ出そうと思ったけれども、手首は握られて、逃げ出せないまま、公演は終わった。ふりほどくのは簡単なのに。甘んじて受け入れた。

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