『モブサイコ100』をいまさら読んだ

 アニメも絶賛放送中のONE先生の『モブサイコ100』。はじめのうちは裏サンデーで読んでいたのだけれどなんとなく読まなくなってしまっていたのは岡部閏先生の『世界鬼』の連載が終了してから、なんとなく裏サンデー自体あまり読まなくなってしまっていたからでしたが、間違いなく面白いに違いないのはわかっていたのでなんかのタイミングで一気読みしようしようと思っていたらいつの間にか13巻まで出ていた。今のタイミングだと突然、思って一気読みしてまんまとハマったので良かったところをだらだら書いてみようと思います。こういうケースだと最近は佐藤健太郎先生の『魔法少女・オブ・ジ・エンド』『魔法少女サイト』も似た感触でWebマンガという連載形態でしか生まれてこないハイクォリティなマンガだと思います。雑誌という紙媒体での制約から解き放たれたことにより、自由にのびのび描いているのが伝わってきますよね。このあたらしい世代のマンガ家たちの「どうせ描いてもほとんどもうすでに誰かが描いている!」諦めから、だが、過剰に踏襲することでオリジナリティを獲得していこうとする、先人へのリスペクトと嫉妬、オリジナリティへの飽くなき渇望みたいな執念を感じます。こうした精神面がマンガの枠を超えさせて、あたらしい作品を生むのだと思います。

 読んだことのない人のためにどんな話なのか簡単に説明しましょう。主人公の影山茂夫、通称モブ君は強大な超能力を持っていながらその力を駆使することなく、なるべく目立たず、低体温で生きている。自称霊能力者の霊幻新隆という師匠がおり、彼の『霊とか相談所』でアルバイトをしている。超能力ではなく、人間力を身につけることが自分には必要だと思い、また、肉体改造部に所属し、肉体の鍛錬も惜しまない。

 ONE先生のマンガは講談社、もっというと90年代の『ヤングマガジン』のスピリットを強く感じます。わたしの見立てなのですが、『ヤンマガ』には大友克洋先生の『AKIRA』という、とにかくうますぎる絵のマンガが連載されていたおかげで、絵が下手だったり雑だけれど、味があり、オリジナリティのあるストーリーやネームが描けるマンガ家が大量にデビューしてるんですよね。いまはめちゃくちゃうまいですけど、望月峯太郎先生やすぎむらしんいち先生、ロクニシコージ先生、サガノヘルマー先生、山田花子先生、水野トビオ先生とか、ぱっとあげるだけでも、いろいろ出てきます。すべてにおいて、ペンタッチに揺れがあり、へなへなの線が特徴で、それまで筆致が美しいことがわりとマンガではプロっぽさのようなところがありました。まあ、そういうラインがあって、その系譜でONE先生を見てしまう。すごくうまいのはようするに見せたい見せゴマに集中させるために絵を抜くのがすごくうまい。コマ割りも、ネームもとんでもなくうまいんですけど。もちろん、超能力モノですから『AKIRA』からの影響も強くて、超能力表現をしっかり受け継いでいるようなところがあります。モブ君の髪型がアキラを意識しているのかわかりませんが、感情が爆発すると大きな力を発揮するというのは完全に『AKIRA』の設定です。女の子がまったくかわいくないところも影響されているのでしょうか。あと、これも超能力モノといえなくもない日渡早紀先生の『ぼくの地球を守って』の錦織一成にも似てる。見た目が。というのは読んでいて気がついたのですが、実は最初はこれは絶対に山本直樹先生の『世界最後の日々』じゃあ〜と思いました。宗教団体、無気力な少年、超能力ですからね。8巻のエクソシスト最上啓示編の最後で人は変わることができる、ぼくが変われたのだから誰にでも変われるチャンスがある。というくだりは「ぼくが誰かに影響を与えるなんて思ってもみなかった」という発見から、自分の成長に気づく『YOUNG&FINE』を思い出すし、森山塔とか塔山森名義で出てくるときの巨根バカ王子キャラとの見た目の共通も気になります。しかし、このおかっぱ頭の男子というジャンル、『おそ松さん』とか、『進撃の巨人』のリヴァイとか近頃人気の萌えやすいキャラクターデザインだなと思います。

 兄は弟に弟は兄にコンプレックスを抱くという設定もよくできてる!『AKIRA』における、金田と鉄雄の関係では金田はまったく鉄雄にコンプレックスを感じてなかったのですが、『モブサイコ100』では感情を爆発させてしまった結果、弟を傷つけてしまった経験がトラウマになり、超能力を使うことを躊躇しているというごはん、ごはんください!おかわりっ!というなんとも気が利いた設定で読者をわしづかみにしてきます。

 7巻から9巻までのストーリーがとにかくすごすぎて、わたしは完全に持って行かれました。霊能力者、最上啓示の悪霊が少女に憑衣し、それを祓うために全国の霊能力者が館に集められ、戦うという展開なのですが、その戦いの中で、少女の内に入ったモブが力を封じられ、少女にいじめられるというあり得たかもしれないパラレルワールドで生き、絶対に超能力を人間に向けないと決めていたことがいかに甘いのか、力でしか解決できないこともあり、それは力を持つもの宿命であり、力を使え、世界を憎めと、諭してくる悪霊、最上との戦いによって、自分がいかに人に恵まれていたのか、このパラレルワールドはあり得たかもしれない一つの世界だが、自分が生きる現実ではない。現実に戻ったらみんなに感謝しようという答えを見つけ、人間的に成長するモブ。ここからがうなる展開で、正しいことを教えてくれるモブにとって圧倒的な師匠であった霊験がいつのまにかモブに依存していることを描いちゃうんですよね。ONE先生、マジ、鳥肌です。霊験は無意識に躊躇なく、正しさを選べる大人として描かれているのですが、モブを利用して仕事をしているうちに、おかしくなってきていて、成長しようとするモブにすがっているということに気がつく訳です。だいたいにおいて、物語の中のこうした大人っていうやつは、常に子供の指針になるべく、正しさしか持ち得ていない。西尾維新の話とかによく出てくる正しいペテン師キャラだなという箱に入れていた霊験がいっきに人間臭く、キャラからはみ出るんですよ。これはほんと、よく描いたなあと思いました。霊験に霊能力がないことを世間が追求するシーンはまんま、佐村河内守の騒動をネタにしていると思われ、霊能力があるかどうか、霊能力のないあなたたちが、判断できないという言い返し方をするんです。わたしはまだ観てないのですが、森達也監督の映画「FAKE」での視点に近いんじゃないでしょうか。同じ佐村河内守側の視点を描いている吉本浩二先生の『淋しいのはアンタだけじゃない』でもそうですが、耳が聴こえていないという本人の感覚は誰にも押しはかることができないはずなのに、そのことを糾弾できるのかどうか、ということなんです。わたしは世代的にも子供の頃といえば、宜保愛子や水木しげるがばんばん出ていて、心霊番組や水曜スペシャルも大好きでしたがその楽しみ方は正しいか間違っているかを知りたいのではなく、目の前に不思議な現象がある、ということ、世の中にはわけのわからないものがある、理解できないことがある、という世界の奥深さや鮮やかさや不思議さにわくわくしました。そうしたうさんくさいもの正しくないものをたくさん見て、自分の考えを養い、だまされることも含めて「作品」を楽しむ、ということにつながっているという当たり前のことをこの霊能力あるなしの展開で提示していくという、最初の霊能力と超能力が一つの作品の中で混在し、どちらも同じように不可思議な力として境界を曖昧にさせたことが効いています。ほんと、すばらしい。読みながらこのあたりは号泣してましたよわたしは。

 『ワンパンマン』でもそうですが、ONE先生は力に振り回されない、得たくもなく持ってしまった力とどう向き合って行くかということをよくテーマにしています。ワンパンマンではすでに諦めたヒーローが主人公ですが『モブサイコ100』では中学生の少年を主人公にしたことで、その内面的な苦悩を丁寧に描き、優れたビルドゥングスロマンとして傑作になり得る作品です。繊細すぎる内面が世界を過敏に反応してしまう世界アレルギーのような子、モブ。彼がいつかワンパンマンになれますように。

https://www.youtube.com/watch?v=_E0wbdZZKRc

記事はここまでですが気に入った人は投げ銭おねがいします!はげみになるよ☆

ここから先は

1字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?