追悼よりも追憶

 死んでしまった人のことを、わりとよく考える。年を経り、いろいろな人と出合うと、出合うだけ人はいなくなっていく確率が増える。何年か前に死んだ人の死が未だに受け入れられないというのはわたしが幼稚なのだろうか。あの人が死んでしまってもう二度と会えないということと、たまたま何年も会わなかったということでは大きく違う。もう、二度と会えないということはどれだけ淋しいことなのだろう。あの人の死が受け入れられないから誰よりも先にわたしが死にたいというメッセージを送ったのがソクーロフの映画であったが(たぶん)わたしはいつも平静ではいられない死の可能性を抱えている。

 とりわけ、こたえるのが同世代の死だ。そんなことをいつまでもひきづるのは異常だ。というようなことを言われもした。逆に聞くけど、それを受け止める心の強さはなんだ。『ショーンオブザデッド』で親友はゾンビになりながらもいつまでも自分と同じ世界にいる。人なんて快楽だけを求めたらゾンビくらいの盲目さで生きているほうが気楽なのだ。言語を介さず、ただ闇雲にそこに存在している。そのたくましさがやたらに眩しい。

 たとえばあの最後のときにわたしはなぜ、声をかけなかったのだろうと思う。戸惑いはなんだったのか。また会えると信じていたからなのか。いったい、自分の尻込みする性格はなんなんだ。いちばん大切なときに大切な言葉を伝えられない。伝える必要のないしょうもない会話はできるのにいちばん伝えたかったことは誰にも伝えられていない。煎じ詰めれば好きですという言葉で片付くような感情をもっと言わなければいけなかったのか。でも、告白は約束になり、その相手をがんじがらめにする。そういうことを躊躇するのは慎ましさではなかったか、とも思う。わたしはわたしらくしあることが、世界を窮屈にすることだとわかってしまう。いちばん大切だと思うものとはいちばん距離を置くべきなのだ。誰かを嫌いだと切り捨てる勇気がわたしにはない。好きや嫌いという単純な感情。その選び方がわからない。

 なぜ、人を好きになってはいけないのだろう。その人にはどこかしらの良さがあるはずで、好きと言って解決したいだけの曖昧さは優柔不断な卑怯なものに映ってしまう。好きにも嫌いにも女という文字がつきまとうが、わたしたちはそこから逃げ延びることで、こたえを見つけることができるのではないか。

 もう会えない誰かのために、贈る言葉があるとすれば、あなたのことが大好きだったという至極、単純な言葉だけ贈れなかったことに後悔し続けるのが、わたしが思う正しい追悼の仕方だと思った。でもそれは間違った考えであることも同時にわかってはいる。わたしなりの方法を選ぶ自由をひとつだけ与えてくれないか。そういう自由が、あってもいいし、それを好きだと受け入れてほしい。誰にと聞くと答えられないけれど、誰かにと願うような気持ちはある。


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