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夏の泉


                         榎本櫻湖


演劇というものが、生身の肉体や空間への異議申したてであるとしたら。この嫌悪すべきぶざまなからだを否定しつくすための営みであり、そうしてさえ消尽することのない、なかば熱をすって融けた氷枕のようなそれを手に提げ、悪罵されることも厭わずに捧げつづけることそのものを指すとしたら。そうであれば、肯定できないにしても、幾許かは自傷することの悦びを抑えられたかもしれぬのに、と悔やむものもいるのだろうし、むしろそうしたもののためにこそあるのだと慰藉してくれたのかもしれない。むろん潰れたトマトがその薄い果皮をふたたびはりつめさせることがないように、いちど放たれたあの地点につき刺されたままの釘は、錆びることはあっても倒れることはなく、外界へむけて、いっそう蕩けてしまえばいいのにもかかわらず、あえかな輪郭をまだ顫えさせているのだが、それでも神の寵愛をいっしんにうけた肉体をいまだ誇示するものの愚鈍さを暴くくらいはできるだろう。もちろんそのうつくしい筋肉の盛りあがりを横目に指を咥えて、涎を垂らしつつでもかまわない、はなから疎まれ、軽んじられ、蔑ろにされてきたものの仕草くらいはお手のものだ。いったい誰が、そのさまを嗤うことができるだろう、ほとんどの観衆にしたって貌を背けたくなるほどの記憶は持ちあわせているのであり、それを回帰させる装置としての機能もはたすのは、この不具の肉体を持つものの宿命であり、あるいは観衆にそうと悟らせるためにいまここに現れたのではなかったか。あの片輪の男を嘲ってはいけない、曇って罅のはしった鏡をのぞきこめば、あの男の痘痕だらけのおぞましい貌が映っているのを見ることになる。それでもかろうじてこちらに視線をよこす眼を、乾いた体液に雑じった埃と黴が発するにおいにいたたまれない鼻を、いまにも不満や下卑た悪態が喉もとで震えているのに負けてしまいそうなくちを、あまやかなささやきに焼け焦げた耳を削ぎ落とすことなどできない。おまえはある諦念を胸に、たつか坐るかするよりない。それができなければつめたい床に寝ころんでしまってもかまわない。おまえは愛されるために生まれてきたのではない。しかしそれだって隣人にとってしてもおなじことだ、おまえはおまえの、醜く、虚ろで、腐りかけた果肉に新鮮な果汁をいきとどけさせることのできるからだに、ときには歯をたてるか、爪をたてるかくらいの自由は保障されているのだから、愛されることのために無惨な時間を費やしてはいけない。

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