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私は、◯◯◯のヴァイオリニストで在りたい 3

昨日第2回目は、私自身が日本に戻ってくることとなった経緯を中心に書きました。

今日は、海外で勉強を終えた日本人音楽家の苦労する点、日本に帰国したその後、という点について触れていこうと思います。

私の場合は厳密にいうと留学生活を終えたのではなく、あくまでも休学という形で2012年1月から日本拠点に。

その後1年半は日本とイタリアを行き来(渡伊中は最大2週間まで滞在)し、「学校の卒業試験をクリア」するのと、その試験を受ける前に姉も受けたことのある「ヴァイオリン国際コンクールにも挑み成果を得る」という目的を果たし、ついでにサルヴァトーレ・アッカルド氏のマスターコースを受け終え、完全に日本に帰ってきたのは2013年の夏でした。

2013年、マスターコースを受け、発表演奏したその当時の私。今の私とは少々雰囲気が違います↓

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2012年1月に実際に動き出したときも、2013年夏に日本に完全に帰ってきて、演奏活動で動き出そうと思ったときも、どちらのタイミングでも感じたことがあります

それは、

「演奏することは知っているけど、どうやって人前で演奏するまでに行き着ける?」


幼い頃から楽器を弾く能力に関しては、厳しく指導され、少なくとも何か人に訴えかけるだけの表現力は、卒業試験やコンクールを無事受け終えた2013年の夏時点では、あると確信はありました。

そういう意味では2012年1月ごろは不安で仕方なかった。23歳の私のプロフィールで、学歴だけを書くものなら「イタリア クレモナに留学中」くらいしかありませんでした。無名にもほどがある、という状態だったものですから。

ただ、日本に完全帰国して、実力はきちんとつけて帰ってこれた、そのタイミングでもぶち当たる問題がありました。

そもそもどうやって音楽家として、人前で演奏活動をしたらいいのか。

自分がこんなにも好きでやっている楽器やクラシック音楽、これ自体が日本人から見れば「外来」のもの。日本の歌を聴くときのように、心にすーっと溶け込むようにして入ってくる、というわけではないよなと。

ただ自分の好きなものを人に押し付けるだけでは、だれも関心を持つことすらしないし、ましてや演奏家としてやりがいのある演奏内容が、必ずしも演奏を聴く人にとっても同様に聞きごたえのある内容である、そのような「イコール」にはならないのだと、演奏の場でお客様に向かって弾きながら、ふとそんなことに気付かされたのです。

例えばオペラが生まれた国イタリアなら、一般人でもなんとはなしに「オペラの歌曲が好き」「自分の国のもの」という感覚があるように感じられましたし、そのようなコンサートを聴きに行きたいという人の熱量や、上手い下手に関わらず (道端であるいてるようなおじちゃんでもイイ声の方多いですが。笑) 自分が挑戦しようという愛好家も、たくさん見受けられました。

日本人にとって響くもの、それはやはり日本語の歌だったり、日本で生まれたものだったりする。

そもそも、日本人である私が、外来のものを日本に持って帰ってきて披露してるわけです。ただただ、普通に弾くだけで、それで広められるものなのか。

「クラシック音楽は普遍的価値がある、すばらしいからいいものなんだ」

そのようにだけ訴えて、果たしてどれだけの人が振り向いてくれるのか。それって、自分が盲目的にクラシック音楽がいいと思い込んでるだけで、他の人が同じようにかならずしも「いい」と思うわけではないんじゃないか。

そんな押し付けを、クラシック音楽に対しよくは知らない層の方達が感じてしまったら、コンサートに行きたいと思うはずがないんじゃ?

私が大好きで、信じてる音楽、弦楽器の世界をただただ音を紡ぎだすだけで果たして訴えられるものなのか。

疑問に思い始めたのです。


次回は、私が音楽家として、ただ演奏をするというだけの音楽家、ではない様々な視点を持とうと動き出していく過程の話から始めて行きます。


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