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私は、◯◯◯のヴァイオリニストで在りたい 5


今日で早くも5パート目を迎えます。
正直ここまで書いてもどんどん言葉が出てくる自分にも驚いているのですが、少しでも興味を持って読んでいただけているのなら嬉しい限りです。まだしばらく続く予定です、どうぞお付き合いください。

前回、私たち演奏家が思う「素晴らしい音楽家」「価値ある音楽」そのような価値観をそのまま日本に持ち帰ったとしても、通用しないことも多いのでは、というお話までさせていただきました。


今日はさらに続けていきます。


(懐かしのクレモナの大聖堂前。階段に座ってトラメッツィーノ、英語だとサンドイッチを姉と昼休み中に食べてました。実はこの立ち位置の右手後ろにあの姉が弾いていた鐘楼 トラッツォがあります。)

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そもそもみなさん、音楽を弾くことに携わっている人の感覚ってどのようなものか、ピンと来られますでしょうか。


私たち演奏家が渇望すること。それは


「技術的に完璧な(完璧に近い)演奏だったか」
「自分自身が満足できる音楽的な演奏だったか」
「先生の教えを全うできた演奏だったか」
「練習した成果を舞台で披露ができたか」


これは楽器を弾くなどの音楽家としてのスキルを上げることのみ注力した人ほど陥りやすい感覚と言えるでしょう。事実、留学当時の私自身もまだまだ持っていた感覚でした。


そして、極端な言い方をしてしまえば、上記のことをクリアーできている人=音楽家として実力がある、という風にも考えられるのです。


ですので、音楽関係者という立場から見れば、コンクールで賞をとってる人や、厳しい音楽の勝負の世界で勝ち残ってきたような方は、それは本当に努力をされてきた方達であるし、評価されるべきことだとも思いますし、実際に大変厳しい修行の道を歩まないといたることができない世界であるとも思います。

海外でいまでも活躍している優秀な演奏家は、それだけに私も尊敬の気持ちを持っております。もちろん姉の横山令奈に対してもそうです。


ただ、先ほど書いた演奏家が渇望していること、今一度読み返してみてほしいんです。


音楽している人は「???」となるかもしれないし

一般の方が読めば「なんで???」ともなるかもしれません。

上に書いたことですが






すべて、弾いている自分自身に向けられたもの、なんです。





弾いているあなたの
「演奏を聴いている人たちに対して」という目線が、ないんです。



私のように、幼少の頃から楽器を、クラシック音楽を叩き込まれた、そんな閉鎖的な世界に浸ってきた人間ほど、
自分のことしか見えない演奏、表現にのみ注力する、そんな思考に陥りやすいのかなと思うのですが、


コンクールで賞を取る、音楽業界の人から評価を得る、そういうことしか知らずに育っていくと、本当に小さな音楽の世界にとらわれやすくなりますし、
そこでたった一握りの勝者が生き残り、負けたものは心底音楽が嫌いになってやめていく、そんな価値観しか知らないままで挫折していく犠牲者(あえてそう書きます)もいるのではないかと、個人的に考えています。


まぁ、この辺の話はちょっと置いといて、


幼少から厳しい世界で音楽を学んできたそのままで、海外留学をし、さらに音楽スキルを鍛え抜いた、そういう音楽家ほど、抜け落ちやすいのかもしれません、そもそも音楽は「誰に向けて」するものかということを。


音楽が好きだから、音楽の道に。
それはとても素敵なことだと思いますし、私も好きなことを人生の中心に置いている人間ですから、幸せ者だと常々思っています。

けれど、例えどんなに好きであっても忘れてはならないことがあるのではないでしょうか。


音楽は、娯楽です。
人を喜ばせるものです。
自分自身も喜びに満ちていなければ、人にその喜びを伝えることはできないと思いますし、
逆に「まだ完璧ではない、今日はうまく弾けなかった」と心で舌打ちしているようなそんな演奏に
聴いてくださったお客は果たして、
楽しんで、喜んで聴いてくださるのでしょうか。

次もまた、聴きに来たいと思うのでしょうか。


初めのパートの方でも書いたことですが


【この日本で、日本人が西洋の、「異文化」のものを演奏している】のと

【西洋で西洋の方にとっての「自国の文化」のものを異国の人が一生懸命演奏している】

見られ方と意味合いは全然変わってくるのではないでしょうか。



西洋でそのまま通じていたものが、日本で同じように通用しないという点は
こういうところにも理由があるのではなかろうか、と、私は思うのです。


さてここで、私たちがよく知る
「音楽」「ミュージック」という言葉の意味を、
あえてみてみたいと思います。

【音楽(おんがく、英 :  music、イタリア語:Musica)の定義には、「音による芸術」といったものから「音による時間の表現」といったものまで、様々なものがある。西洋音楽では、リズム(律動)、メロディー(旋律)、ハーモニー(和声)をもつものが音楽とされる。そして、このような特性をもつ音を様々な方法で発したり、聴いたり、想像したり、楽しむ行為のことをも指す。広くは人間が楽しめたり、意味を感じたりすることのできる音全体のことをさす場合もある。】


日本で活動する際に、ヨーロッパでの素敵な文化を持ち帰るというのは、ただ自分が向こうで弾いていたものを弾くだけで持ち帰れていることには、私はならないのだと思うんです。
その素晴らしさや、良さを、きちんと日本の皆様に伝えたいのならば、言葉や様々な表現で伝える努力をし続けること。
これが、日本で音楽活動をする最低条件だと、私は考えます。

もちろん、誰に向けて音楽をするのか、それを決めてから方針はまた変わるわけですが。



そんな頃合いで、今日は終わります。


次も読みたい!と思う方は、ぜひ「スキ」を押してください。筆者テンション上がります。笑


また、おまけも今日つけますが、おまけも見ていただけると、それだけ記事にご興味を持っていただけたんだなぁと、更にテンションが上がります。笑


もちろん、おまけはごらんいただなくとも、本筋にはなんの影響もございませんが、よかったらどうぞということで。

今日も昔懐かし留学時代のレア写真、「タイトルに貼っていた顔が見えないあの写真」を貼っておきます。

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