「尊敬」にまつわる、あれこれ

2024年2月に受けたディマティーニ・メソッド・トレーニングプログラム
感想レポ②

【ディマティーニ・メソッド研修2日目】

今日はレクチャー半分、ワーク半分

受講生同士ペアになり、基本の型をおさらいするための「軽め」の練習セッション

・・・だったはずなんだけど・・・


なんか、、

ディマティーニさんから学んで
”これまでの学びが統合される感じ”がするって
昨日書いて。
そういう印象を12月に受けたときに持ったんだけど。

嘘かも😂

嘘っていうか、、、

これまで信じてきた世界、
自分という人間、

これまでの私の知覚

私の「現実」を作っていた価値観

ちょっと一回、無になるかも

全部一回、白紙に戻すっていうか

築いてきたものを一回
全部壊すのかも

今日の”練習”セッション、だいぶ、切り込まれて
(気持ち的には、痛いところ突かれたって感じ)

世界がガラガラと崩れ始め

頭が混乱中。

でも、それで良いんだと思う。というか。
そのために参加してるんじゃなかったっけ。

傷ついた、傷つけた
恥ずかしかった、失敗した
自己嫌悪、自己陶酔
あの人のせい、私のおかげ
正解、間違い

そういうストーリーから脱却するために来ているはずだから。
そういう世界から脱する術を知りたかったはずだから。

***

なんか、、

レクチャーを聞いて、頭で理解しようとしている間は
やっぱりどこか、距離があって

安全な場所から、
「要するにこういうことだよね」て分かったフリをしたくなって

で、私、これまでも、

ちょっと距離を取りながら。人からも、いろんな状況からも
一歩引いて
なんか分かったふりをして

やっぱりどこか、線を引いて、誰も自分の心に踏み込ませなかったり

「本当はわかってない自分」とか
「本当はぐちゃぐちゃな自分」とか
できない自分、弱い自分、

そういうのが露呈するのが死ぬほど恥ずかしくて怖くて

たぶんこれまでの人生、すごく武装してきたと思う

できるふり、わかったふり、
強いふり

そんなの虚勢だって
周りからはバレバレかもしれないけど

でも私、
いったい何がバレるのが怖いんだろう?
何を知られるのが恥ずかしいんだろう?

批判されること(できないことや「間違い」を指摘されるとか)を
極端に恐れてるところがあるんだけど

私いったい
何から自分を守ろうとしてるんだろう???

えっと、一言で言うと、プライドが超絶高いんだけど😅
そんな自覚もないまま、無意識にそれ(プライド)がめちゃくちゃ蓄積されてて
それを正面から指摘されて認識するきっかけが前回(12月)のセミナーだった
(死ぬほど恥ずかしかった)

今日はまた別角度から
自分の心の弱い部分というか

うーん、「弱い」とか強いとかじゃないんだけど
バランスを欠いている部分。
自分の心に蓄積している感情があらわになって

なんかめちゃくちゃ動揺した😂

セッションで、けっこう踏み込まれて(と感じて)
てきとーに受け止めて、かわして、そのターンを終わらせようとする私を
その人、まあまあ追い詰めてきて(笑)

あー私、見られたくないんだな、知られたくないんだな
こういう部分を

つまり、自分が自分を直視したくない

たぶん、ベテランのファシリテーターとペアになってたら
私も違う受け取り方と反応をしたんだろうなと思う
(従順な生徒モードに入ってたと思われる)

相手がぱっと見、同年代で、今回初参加って言ってたから
油断したというか
素直に受け取れなくてカチンと来て
でもその状況だからこそ、奥に隠れてた部分を引き出してもらえたのかなと思う

これまでも、向き合っているようで、
上手に逃げてきた、かわしてきた部分もあって

でもそれを隠そう、隠そう、バレないようにってやってるから
人と距離もできるし
自分が窮屈で
自分が自分を発揮しきれない

殻を破るには
私にはこの場が必要だったんだな

***

結局、私は、
ひとつには、
「優秀な自分でいたい」

そのセルフイメージを脅かされるのを極端に怖がってる

そしてもうひとつ、というかこっちが今日の私のメインテーマなんだけど

人生で出会ったいろんな
「尊敬する人」が

私の中で自分のアイデンティティと同一化しすぎている、というか

その人たちの価値基準を自分の中に取り込みすぎて
区別がつかなくなっている

私が自分を裁くときの基準、比較対象が
その人たち

こんなに入り込んでいるのかってビックリした

もうそこから卒業したつもりでいた

最初の一人は父親

それから高校・大学の恩師や
前の団体の上司など

人生の各ステージで「師匠」的な存在がいて
その人が私にとってはものすごく大事で

一番承認してほしい相手でもあり
一番怖れている相手でもあり

でも私はその人の「良い面」しか見えてないところがあり
尊敬の気持ちも強いから
誰かがその人の悪口言ったりしたらめちゃくちゃ傷つくし(自分が言われたかのように受け取る)
(いや、自分に対して言われるよりショックかも)

そういう意味で、自分と一体化しすぎていて

もう実際に関わることがなくても、
ずーーっと私は、どこかで
「あの人のようになること」
「あの人に認められる自分になること」
「あの人の前に立って恥ずかしくない自分になること」を追い求めていて

同時にそれは

「あの人(あのすごい人)から認められたすごい自分」という
承認を追い求めているっていうのと同じことなんだよね。
自分にとってのステータス。

前回のセミナーで父に対してワークをして
常にどこかにあった「父に監視されている感覚」がようやく消えたのだけど😅

今日突っ込まれて泣いたのは、
元メンターの、「一番尊敬する行動の、デメリットを挙げる」という部分のワークでした

全然、出てこなかったから😂

別にね、尊敬してるまま、好きなままで良いし
その感情自体の良し悪しの話ではなく

私がそれ(崇める・承認を求める)をやっている限り

本当の自分を生きられないってことなんだよね

自分で自分の価値を下げているんだよね
(「あの人に比べて自分は大したことない」って比較する中で)

自分で自分の力を奪っている。

そして、そうやって「誰か」のそばにいないと
(今は物理的にそばにいなくても
その過去が私の誇りで、支えになっている、その支えがないと)
自分で自分に存在の許可を与えられない私は

どこでそんなに自分の力を明け渡してしまったんだろう?

***

この5日間は、

「ただの私」

を取り戻すための旅なのかもしれない

ハリボテは、ぜーんぶ壊してしまえ。

そして、すべては、すでに、自分の中に
この人生の中に
「ある」

をひとつひとつ、確認していく旅。

明日〜明後日はひたすらワークなので

もう、ここで脱がなかったら一生脱がないので

全部脱ぐ覚悟を決めました😂


▼③へ続く


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