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ラヴェルの弦楽四重奏曲の成立過程


モーリス・ラヴェルの弦楽四重奏曲は、初版が1905年2月以降のアストリュク版で、ここまでにもラヴェル自身が何度も校正に携わり、さらに1910年のデュラン版によって改訂されたものが定本となっています。1910年版楽譜表紙には “Nouvelle Édition revue par l’Auteur” (作曲家よる新訂版)と書かれています。

Nouvelle Édition revue par l’Auteur
楽譜表紙上部の赤線部分


この弦楽四重奏曲に関する興味深い情報源として、ロチェスター大学に保存されているアストリュク版のラヴェルが手を入れた2つの校正刷りがあります。このような校正刷りが残されているのも極めて珍しいものです。
これらはインターネットで無料でアクセス可能です。


●1905年1月19日の3番目の校正刷り

1905年1月19日の3番目の校正刷り
楽譜冒頭ページ
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●1905年2月14日の4番目の校正刷り

1905年2月14日の4番目の校正刷り
楽譜冒頭ページ



また、ラヴェルの弦楽四重奏曲の創作過程について興味深い情報として、仏モーリス・ラヴェル友の会がラヴェルのデータベースを編纂しています学術サイトDezèdeにはラヴェル生前の弦楽四重奏曲の演奏記録があります:

https://dezede.org/dossiers/le-quatuor-de-ravel-1904-1937

ご覧いただければ、1904年3月5日のエマン四重奏団による初演が、楽譜が印刷される前の時期でした。

その初演翌月には、当時から作曲家と親しい音楽評論家でラヴェル率いる芸術家集団「アパッシュ」のメンバーだったミシェル=ディミトリー・カルヴォコレッシ(1877-1944)が音楽評論誌にその手稿譜を基に譜例入りの楽曲分析を載せています。

ミシェル=ディミトリー・カルヴォコレッシ
(1877-1944)
M-D.カルヴォコレッシによる
ラヴェルの弦楽四重奏曲の楽曲分析
譜例入り、211頁

M.-D. [Michel-Dimitri] Calvocoressi, « Le Quatuor à cordes en fa majeur de M. Maurice Ravel », La Revue musicale, n°8, 15 avril 1904, p. 210-214.


ラヴェルが興行師・出版者でもあったガブリエル・アストリュク(1864-1938)と1904年末に接触し、「シェエラザード」と「弦楽四重奏曲」の出版を承諾するまで、この弦楽四重奏団は眠り続けていました。

ガブリエル・アストリュク
(1864-1938)



アストリュクの校正作業が行われたのは、アルマン・パラン四重奏団による演奏と並行していることが興味深いところです。

1905年1月19日 - アストリュックのための第3校正
1905年2月10日 - パラン四重奏団による最初の公開演奏
1905年2月14日 - アストリュックのための第4校正
1905年2月19日 - パラン四重奏団による最初の非公開演奏(アンリ・シャテリエ医師宅)
1905年2月24日 - パラン四重奏団による2回目の公開演奏
1905年3月15日- 弦楽四重奏曲の出版がアストリュクから発表
1905年11月10日 - パラン四重奏団による3回目の公開演奏
1905年12月17日 - パラン四重奏団による2回目の非公開演奏(アンリ・シャテリエ医師宅)
1906年1月7日 - パラン四重奏団による3回目の非公開演奏(アンリ・シャテリエ医師宅)
1906年1月19日 - パラン四重奏団による4回目の公開演奏
1906年1月21日 - パラン四重奏団による4回目の非公開演奏(アンリ・シャテリエ医師宅)
1906年3月23日 - パラン四重奏団による5回目の公開演奏

パラン四重奏団
Le quatuor Parent
– Parent, Loiseau, Baretti, Vieux –
1903


1906年3月29日 - ルキン四重奏団が、エマン四重奏団(1回)とパラン四重奏団(5回の公開演奏と4回の非公開演奏を含む9回)の後に、ラヴェルの弦楽四重奏曲を演奏

1906年5月以降、ジェローソ四重奏団がラヴェルの弦楽四重奏曲を演奏し始め、その後も何度か演奏しました。この四重奏団には、後に指揮者となるピエール・モントゥー(バレエ・リュス団などで活躍)も所属しており、重要な形成を果たしています。

ジェローソ四重奏団による演奏会:
- 1906年5月、ポリニャック公爵夫人邸
- 1906年12月13日
- 1908年1月11日(ラヴェル本人も出席)
- 1912年2月17日

ジェローソ四重奏団
右から2番目ピエール・モントゥー
中央は作曲家エドヴァルド・グリーグ
G.アストリュク版のラヴェル弦楽四重奏曲表紙
ロチェスター大学所蔵

1905年のアストリュク版から、1910年のデュラン版として校正にあたったラヴェルは、パラン四重奏団とジェローソ四重奏団の演奏を考慮に入れたというのは明らかです。残念ながら、これら二つの四重奏団の音楽家とラヴェルの間の書簡は存在せず、交流は口頭で行われたものと推測されます。また、これらの四重奏団の音楽家がラヴェルや弦楽四重奏曲についての証言したものは残されていません。

なお1906年12月13日のコンサートで聴かれたラヴェルの弦楽四重奏曲に対する彼の厳しい意見が興味深いかもしれません:

「そして、ラヴェル氏の四重奏曲に関して、若きフランス音楽の希望とされる作品ですが、それは霊感に欠け、『ドビュッシー以下』の努力しか感じさせない作品でした。」

評論家エドモン・ステュリグ、1906年12月13日でのラヴェルの弦楽四重奏曲のコンサート評

こちらもご参考まで。


※サムネイル画像はラヴェルの弦楽四重奏曲1910年デュラン版(再版)とカルヴォコレッシの弦楽四重奏曲の楽曲分析の記事、日本モーリス・ラヴェル友の会所蔵

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