私本義経 前史 長兄の日々2

保元の乱


保元の乱はあくまでも、上皇につくか今上につくかという立ち位置の問題であり、その下に侍る公家たちもまた、藤原摂関家につくか、信頼殿、信西殿につくかだった。
まず以て、武家がついてやらなければ、戦さひとつできない公家体質に腹が立ったし、それでいて恩賞はきゃつらが除目する、はっきり言って恩知らずだと思った。
父の父等が崇徳側についてしまったことは本当に浅はかだったと思うし、向こうは大蔵合戦の意趣返し程度の発想だっただろうことは想像に難くない。
潰走し、逆賊として捕縛された時には大いにぎょっとしたであろう。
そして父もまた、一族の浅はかゆえに、自分がとりなせば何とかなるだろうと、心中密かに期待していたのではなかったか。
だが、蓋をあけてみれば、宣せられたのは自らの手による身内の処刑だった。
“ヲヤノクビ切ツ”と世に誹られるのに耐えて、贖われた褒賞は『左馬頭』。
いやその上の、『右馬権頭』を提示はされたのだ。
不足を申し立てなければ、父親らのための進言しなければ、そのまま 『右馬権頭』であったのやも知れぬ。
されど現実は『左馬頭』。
しかも“ヲヤノクビ切ツ”の誹りつき。
ともに逆賊を退けた平清盛も、実の叔父の命を取ったのに、もっと言えば、崇徳上皇により近い位置の一族なのに、信西殿の憶えめでたいというだけで、あれよあれよと出世し続けていった。
そう、信西殿。
保元の乱以降、ますます勢いを増し、今上の信頼を笠に着て、横暴なことこの上なくなっていた。
ことあるごとに平氏に恩情し、源氏は朝廷から遠ざける。
父を寵してくれていた藤原信頼殿は、今上の寵臣だったはずだが、父同様、信西殿の権勢の前に、今はもう見る影もない。
讒言され続けたとも聞こえている。
いま朝廷では、いったい何が起きているのだ?

東国の地で独り気を揉む俺の許に、ついに知らせが来た。
決起であった。


平治の乱


始まりは、やはり信西入道の、専横に対する怒りだったようだ。
当時朝廷には、三つの派閥があったようで、今は上皇となった後白河天皇~保元の乱の時の今上である~の院政を良きと思う者ら(父や信頼殿のような面々である)、後白河上皇院政賛成派ながら信西入道の一人天下に追随する連中、あとは今上の親政を望む者たちだった。
源氏と並ぶ武門の棟梁である平氏は、入道の肩入れを受けながらも、あまり極端な増上慢は見せず、どちらかといえば中立の姿勢をみせていた。
先の乱の際、一族が崇徳上皇側に近すぎたことに対する反省なのかもしれなかった。
それでも具体的に乱となれば、信西の側に立つに相違ない。
信西が禄や階級を振る舞いまくったせいで、平氏は安泰どころか肥え太りまくりである。
一事あれば、抱えの家人がちょっと駆け出すだけで世間がひっくり返るだろう。
そうなればどんな政変も成り立たぬ。
そこで父らは清盛が、熊野参詣で京を離れる留守を狙うことにしたのだ。

平治元年12月9日(1160年1月19日)、父義朝は、源光保、源季実、源重成らとともに、藤原信頼と組み、信西が在ると目される三条殿(さんじょうどの)を襲撃、焼き討ちした。
焼き討ちで落命しなかった信西を、追って追って首を落としたが、清盛が熊野から、素早く取って返してきて、父らは大慌てに慌てた。
清盛の留守を狙っての、密かな挙兵だったから、手許の兵はごく少数だったのだ。
父は俺に援軍を要請、俺は三浦、上総介、山内首藤等、信頼のおける東国武士らのみを率いて都に上った。


御所


行ってみると齢十三の頼朝が、父に従っていた。
嫡男様だ。
悪意はないのだが、少しだけ苦々しい。
青ざめているのは、ほとんど初めて人の生き死にに遭遇したからだろう。
公家のように白い肌。
目鼻立ちもきりりと凛々しい。
これこそが良い血筋のこども、か…
感慨に耽っていた俺は、父が俺に既に、戦略について話し始めていることに、しばらく気づかなかった。

信頼殿によれば、清盛殿は吾々とことを構えるつもりはないそうだ。
清盛殿は家人を信頼殿のもとに遣わし、名簿(みょうぶ)を提出したという。
吾々も、親兄弟を殺させた信西さえ倒せればそれでいいし、後白河上皇が思う政治がなせれば良いのだ。
政変は終わったのだ…

終わったのなら俺が上洛する必要もなかったではないか。
何より上皇も今上も、俺たちの手許に居りながら、怒気を含んだ目をしている。
保元の時のようにはいかぬ。
そんな予感がみなぎっていた。


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