私本義経 京の夜

京へ


道中は存外快適だった。
親能殿が頼朝兄上よりお優しく、何かと細やかに気を使ってくだされるからだ。

九郎殿。
それは違いますぞ。

都の流儀を知らぬ(忘れた)私に、時に厳しく、時に優しく、いろいろなことを教えてくださる。
糧食を運んでおるがゆえ、野盗なども出るが、弁慶、吉内、佐藤兄弟で事足りる。

よい郎党をお持ちですな。

お褒めいただいて恐縮です。

私は親能殿にも情を持ったが、弁慶に注意された。

公家にはくれぐれもご用心を。
きゃつらは優しい笑顔を浮かべつつ、その手の内に毒を持ちます。

それは聞き及んではおる。
されどあの方はそんな…

…。
忠告は、いたしましたぞ。

弁慶は愛想もなく、その場を離れる。
感覚が知らせる。
弁慶の見立てはいつも正しい。
それでも、一人でも多くの人を信じたいのだ、私は。
兄に拒まれれば拒まれるほど、私は兄に近づきたかった。
親能殿と懇意になれば、兄上にも至誠通じるのではないか。
私にはそう思えてならなかったから。
だから親能殿は私にとって、とても重要な存在だったのだ。


私を慕うているらしい九郎義経との旅は、意外にも楽しかった。
乾いた布地のように、礼儀や教養、都の流儀を吸収してゆくこの若者のみずみずしさが、私の心を揺らしたからだった。
かれは繰り返し、私に問う。

私はどうあれば、頼朝兄上のお役に立てるのでしょうか。
私はどうすれば、頼朝兄上に好かれるのでしょうか。

それは無理だと言ってしまえれば事は簡単なのだが、あまりにも無垢な瞳(め)で問いくるものだから、私はただただ気後れしてしまうのだった。
気後れは、積み重なってかすかながらに慈しみへと変貌を遂げ、ともすれば己の弟(てい)ででもあるかのような錯覚すらも醸すのであった。

正直、頼朝殿は、末弟殿を好いてはおられない。
常盤御前という女人が父君、義朝殿のお心を捉えた日から、頼朝殿は激しく心乱された。
三人も子を成したという、と、吐き捨てるように言うたかの御仁を、遠き日の私は覚えておる。
その常盤が平氏の手に落ち、あろうことか清盛に囲われた。

兄二人は即座に寺々へ放り込まれたというに、末子はそのまま九年も…

あんなにも露骨に怒りを顕す頼朝殿を、私は見たことがなかった。
頼朝殿がそんなにも憎む九郎殿を可愛がるなどもってのほかだ。
なのに、日々、私はかれが愛しくなっていく。
そんな葛藤を抱えつつ、私たちはついに京に入った。


奈落


京は地獄だった。
町ゆく人々は骨と皮ばかり。
公家衆すらやせ細っている。
やんごとない方もそうでない向きも心底義仲の兵を恐れており、それらの目を盗むように行動していた。
そんな世情のさなかに、多量の糧食の荷車連ねて我らが着いたため、洛中は大変な騒ぎとなってしまった。
木曽の兵らは野盗よりも始末が悪く、九郎殿の郎党以下、平(ひら)の雑兵までも必死で防戦してもなお、あちらで一台、こちらで一台荷車が返され、米といわず稗粟といわず、汚れた大地に撒かれた。
群がる人、人、人、人。
餓鬼の群のようになった人々がそれらに群がっている隙に、隊は御所の勘定どころに財を届けることができたのだった。

御所のお歴々は驚愕した。
此度の運搬で、失われた財は今しがた返された荷車二台のみ。
それも隊の代表だというこの若造は、存念あって自ら返したのだというのだ。

あれだけ飢え渇えておりまするに、無傷で通ろうとするほうが無理というもの。
あえてふた所に撒いて、意識を向けさせたのでございます。

畏まる若者の知略に、心底舌をまいた。

た、たれなのだこの若僧は。
輸送隊長か??

口々に問う公家らに、私はもはや偽る気をなくしていた。

一介の輸送隊長ではありませぬ。
源九郎義経。
鎌倉殿、源三郎頼朝殿の弟君にあらせられます。
今回の輸送の全権者でございます。

一同がおおーっとなった。


画策


ねぎらいの宴席に、九郎も郎党も出席しなかった。
私が全権者であると思われていたせいもあるが、九郎が望んで申し出たせいでもあった。

宴は苦手ですので、よろしくお願いいたします。
代わりに…

米稗粟、各々たった一俵ずつ欲しがって、郎党ともども姿を消したのだ。

それっぱかり、何に使う?

戸惑いつつ、杯を重ねる。
糧食と税を運んできたのだ。
後はゆっくり体を休めつつ、逃げ散った平氏の始末、横暴究むる木曽義仲への対応を考えねば。

後白河法皇はどうお考えなのだ。

鎌倉を動かして、都を大掃除したいかと。

されど此度も頼朝は来ぬ。

法皇に踊らされることなく鎌倉に権威を持ちたいと考えて居るはず。

両者の損得分岐は?


杯を重ねてもよい案は出ず、次回継続討議となった。
ほろ酔いで、牛車に乗り込む。
揺れに身を任せ、宿として宛てがわれた寺に向かう。
心地よい夜風。
珍しく物乞いも夜盗も現れぬ…のはなぜだ?

不意に車が止まった。
何事?と御簾を少し上げる。
見ればこれから入ろうとする寺の門前に、ものすごい人だかりができておるではないか。
それとどこからか香ってくる煮炊き、汁物の匂い。

慌てるな。
粥はまだある。

叫んでいる声は、九郎か?
御簾を完全に上げてみると、そこで行われていたのは炊き出しだった。
あの米を、稗を、粟を、郎党と煮て、飢えた者たちに分け与えていたのだ。

並べ。
並ばぬ者には与えぬ。

女こどもにもちゃんと与えよ。
男が多くとるのも許さぬ!

徳政。
三十にもならぬ小僧が。
京についたばかりの小僧がこれをしている。
市井の者も木曽の兵も、ひとしなみに並んでうけとっている。
器のない者には笹を巻いたようなものや、布切れに戴せてやっている。
我知らず、涙が出てきた。
あの者は、生まれながらに人の上に立つ星なのではあるまいか。
ゆえに三郎殿は忌み嫌っておるのではあるまいか。
三郎殿の側の自分であるのに、私は強くそう思った。
そんな自分が恐ろしくすらあった。


それでも地球は回っている