私本藤原範頼 西行の章4

弟(てい)の勢


後白河の命を受けたか、一人勝手な抜け駆けか。
しかも義経の軍勢には、渡邉津を取り仕切る渡邉党やら、伊予の河野やらが付いている。
水軍持つ者、海に詳しい者、西国をよくわかっている者らが付いている。
熊野別当湛増までが来るという。
狡い。
こすい。
終わりにちょこっと来て、戦功を持って行こうというのか!


さすがにいらいらしてきているところへ、和田義盛殿の兵らが、勝手に東国へ戻ろうとしておるのを知ってしまい、私の怒りは再び頂点に達した。
私は和田殿の陣へ赴いたが、あろうことか和田殿ご自身も、荷造りを終えられていたのだ。

これはその…
その…

剛勇老骨。
石橋山以来の兄上の股肱すらがこれか!
叱責もせず黙って自陣に取って返した私の背(せな)が、めちゃめちゃ怒っていたのだろう。
和田軍全員即座に旅装を解いたという。


平知盛


年明けて元暦二年(1185年)正月十二日。
周防からやっと、長門、赤間関に到達できた。
平氏の拠点を一つ、また一つと潰しながら、やっとここまで来たのだ。
九州への渡海も今度こそ順調に行くかと思われたのだが、ここへきてまた平家の将に行く手を阻まれた。
平知盛の軍。
彦島を拠点とし、没落する平氏を懸命に支えているとみられる。

天晴れだとは思う。
思うけれど。
行盛終えて、今度は知盛。
もう盛の字は見たくなかった。
(平の字もだ、もちろん)
海には風待ちも潮待ちもある。
よい漕ぎ手も必要である。
足止めはさらに数日に及び、東国武士達の厭戦気分が再び強まり出したまさにその時。
事態がするすると動いた。


早くから、反平氏の兵を挙げていた豊後の豪族、緒方惟栄と臼杵惟隆の兄弟から、兵船八十二艘の献上があったのだ。
周防の宇佐那木上七遠隆からは兵糧米が届いた。
人は現金なもので、先行きにめどが立つと、俄然やる気も戻ってくる。
私の軍はやっとひと息つくことができ、十分に骨休めした上で、豊後に渡ることが出来たのだった。
時に一月二十六日。
ちなみにこの日渡海したのは、

北条義時
足利義兼
小山朝政
小山宗政
小山朝光
武田有義
中原親能
千葉常胤
千葉常秀
下河辺行平
下河辺政義
浅沼広綱
三浦義澄
三浦義村
八田知家
八田知重
葛西清重
渋谷重国
渋谷高重
比企朝宗
比企能員
和田義盛
和田宗実
和田義胤
大多和義成
安西景益
安西明景
大河戸広行
大河戸行元
中条家長
加藤景廉
工藤祐経
工藤祐茂
天野遠景
一品坊昌寛
土佐坊昌俊
小野寺道綱

らである。
(佐々木は渡海させなかった)


そしてここからは怒涛の勢いとなった。
北条義時、下河辺行平、渋谷重国、品河清実が最初に上陸し、文治元年(1185年)二月一日、筑前は葦屋浦にて、平氏方の原田種直、賀摩種益親子の攻撃を受け、一大合戦となったが、下河辺行平、渋谷重国らが激しく応戦し、種直らは重国に射られ、行平は美気種敦を討ち取った。
これが世にいう葦屋浦の戦いである。

この合戦の勝利により我々は、平氏の地盤であった長門・豊前・筑前を制圧、わずかな海峡を隔てる彦島に、平氏残党を釘付けとしたのだった。

今や平氏は彦島、屋島に僅か残るのみ。
陸に上げなければ放置しておいても滅んでゆく。
だが島で滅ぼすわけにはゆかぬ。
三種の神器と今上と、二位尼の無事が、すべて私にかかっている。
いよいよ戦さも終盤。
終盤であるというに。
義経の攻めは怒涛の如くなった。
嵐をついて渡邉津より阿波・勝浦に上陸するや否や、騎乗の人となって高松目指した。
土地の者を使って多勢に見せかけ、高松に至っては焼き払った。
すべて多勢に見せかけるためだったという。
見せかけを信じた平氏は海へ逃れ、屋島はあっという間に片付いたのだった。

こんなに簡単なら、最初から義経を出動させれば良かったではないか。
きっと院も公家衆も思ってる。
私はものすごく間抜けに見えるであろうな。
しかも私は…
唐針に乗っている。


それでも地球は回っている