私本義経 前史 敵も語る

母代わり祇園女御


吾の名は平清盛。
父・平忠盛は伊勢平氏の棟梁。
長男とされるが、別の説もある。
白河法皇の寵姫・祇園女御(ぎおんのにょうご)の猶子でもあり、その愛寵のゆえにか出世も早かった。
大治四年(1129年)正月に、齢十二で従五位下・左兵衛佐に叙任。
同年三月には、石清水臨時祭の舞人に選ばれた。
この際に、吾が馬の口取を、祇園女御のご養子であり、かつ時の内大臣である源有仁の家中の者が勤めてくれた。
これはとりもなおさず、清盛の後ろ盾には祇園女御が在(あ)るぞ、という告知であり、白河法皇も近しいぞという匂わせでもあるのだった。
公卿を輩出したことのない、院近臣にすぎぬ伊勢平氏の出身でありながら、吾がさしたる妨害も受けずに出世してゆけたのは、そこに力ある女性の存在があったからだといえよう。
交流交友が、道を拓くと幼くて知ってしまった吾は、人付き合いの大切さと恐ろしさを、強く己の心に刻んだのだった。


継母・宗子(池禅尼)、妻・時子


若い頃は、鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成殿の屋敷に出入りしていた。
家成殿は、父・忠盛の後添い、宗子殿(後の池禅尼)の従兄弟であり、かの女人は後に崇徳天皇の皇子・重仁親王の乳母にもなっている。
婚姻は、勢力を広げるすべにもなるのだ。
吾の最初の妻は身分の低い廷臣の娘だったが、気だてがよく、奥ゆかしかった。
重盛、基盛の二男を得たが、かの妻は幸薄く数年で身罷り、吾は後添いに時子を迎えた。
宗盛、知盛、徳子(建礼門院)、重衡らの母となったこの女性の父君は、鳥羽法皇の判官代。
葉室顕頼や信西とともに、院庁の実務を担当していた。
白河法皇の縁(えにし)に次いで、鳥羽法皇との縁ができ、後に政治の総権能となる信西入道との縁までができたのだ。
人脈はまさに宝だった。


源氏


そのことを、源氏は気づいていただろうか。
当時源氏を率いていたのは為義殿で、本人や家人の乱暴狼藉でひどく評判を落としていた。
そんな一族を苦々しく見ておられたらしいご嫡男・義朝殿は、突然廃嫡されて東夷(あずまえびす)へと流れていったが、その地の豪族と良い縁を結び、見事中央へ返り咲いた。
為義殿は息子殿を見直すどころかその手柄と出世を妬み、下の息子等をけしかけて、東夷の土地を奪わせようとし、息子殿の長子、齢たった十五のこどもに追い散らされたという。
一族の内紛は大変見苦しく、朝廷からお咎めを受けてもおかしくない出来事であったが、この頃義朝殿は朝廷内でも我が世の春を謳歌していた藤原信頼殿の庇護を受けていたため、何らお咎めはなかった。
もはや為義殿のほうが傍流となっていたのだ。
もちろん為義殿は面白くない。
自分を買ってくれる大物を求めて世間を睥睨するうちに、

これ為義よ

と声をかけたのが、崇徳上皇とそのあたりの面々だった。

今上を退ける。
手を貸さぬか?

為義殿はたぶん、千載一遇の機会と思ったであろう。
最新の嫡男~義朝殿だけでなく、その弟御までも廃嫡し、この頃の嫡男は頼賢殿となっていた~や、弓で知られる剛の者である弟・為朝殿までも連れ、上機嫌で崇徳上皇側についたのだった。


身内


わが平氏からは平忠正が行ってしまっていた。
父・忠盛の弟であったが、二十年も前に鳥羽上皇の勘気に触れ、朝廷を去らされている。
順調に出世栄達を繰り返した父を妬み、取って代わろうとしたのだろうか。
叔父といい、為義殿といい、逆恨みと羨望で目が曇っていたとしか思えぬ。
私や義朝殿は迷うことなく今上につき、乱はたくさんのもののふを巻き込んだ割に、たった一日で終結した。
それがあなたがたの呼ぶ、保元の乱だったのである。

私を取り巻く環境的には、崇徳上皇にお味方すべきだったかもしれない。
継母殿は崇徳上皇側に縁が深かったし、どちら側にも縁はあった。
だが私には見えていた。
上皇は、自分が院政をしたいがために、弟である今上を排したかっただけだと。
年の近い天皇では『後見』できぬから、次の天皇を立てたかっただけなのだ。
浅ましい。
実に浅ましいではないか。
私は一門の結束に務め、今上の勝利へと導いた。
浅ましい側についた叔父殿など、粛正するのが当たり前だと思った。
だが私の決断は、そのまま義朝殿にも同様の決断を促すこととなってしまった。
私が処断したのは叔父であり、とうに縁など切れている。
だが義朝殿が斬る相手は、父(てて)御だ。
そうたやすく斬れるものでもあるまい…

実際義朝殿は、褒賞の返上すら申し出たという。
然れども裁きは無情。
義朝殿は我が手で、おのが父を斬らねばならなかったのである。


それでも地球は回っている