デリシャス・アンダーグラウンドについて…私の父に思う事。
なんとか『デリシャス・アンダーグラウンド』も第三回目になりました。ようやくこういう感じで話を回していけたらいいのかなと自分なりにわかってきたような、わかってないような感じです。二回目、三回目はじつはネームが通らなかったので、絶対に通させてやると思って私なりに切ったネームです。ちょうどお盆の頃だったので、なんとなく死んだ父の事などを思い出して、事件解決の物語に個人的な気持ちを入れてみました。
私の父は会社の社長で一時期は六本木にオフィスを構えていたのですが、アフリカでの仕事に失敗、仕事が上手くいかなくなると、「お前たちは金食い虫だ」と怒鳴って、自宅で暴力を振るうようになり、母を殴ったので逆に弟に制圧されたりしていたものですが日々の喧嘩で玄関のガラスが割れたり、みるからに家は荒んでいきました。
そして横浜の大きな家を売り払って夜逃げの様に家族で出ていくことになりました。そのあと千葉の片田舎に家を建てたのですが、そこも売ることになってしまい、家族はマンションに引っ越したのですがそこもみるみる家具が差し押さえられて、父と母は父の親戚を頼ってカナダに逃げることになりました。
姉はその時嫁いでいて、私と弟はバイトしながらアパートに住んでいたのですが、父はカナダに発つとき、ホテルにも泊まれず私と弟のアパートに泊まり、朝出ていくときに、仕事もお金も無いのにバーバリーのコートと皮のスーツケース、ブランドの時計をしていて、おちぶれた姿をカナダの親戚に見られたくないのもあったでしょうが私は『見栄っ張りでバカみたい』と思いました。そして二度と生きて会えないだろうな、と直感で感じました。
その直感通り、父はカナダで約一年後にアフリカ滞在中に患った肝臓病が悪化し、日本の親戚を頼って帰国することになり、カナダで買った家も売り払って、あす飛行機に乗るという日に母と泊まったホテルで父が吐血し、翌日病院に行ったところ大量に吐血、そのまま入院し、帰国はできなくなりました。
母は父のカナダの親戚と病院の父に付き添っていたのですが、突然父が「ぎゃー」と悲鳴を上げて、病院で激痛に苦しみだし「痛いよう、痛いよう」と言いながらそのまま亡くなったそうです。
その夜カナダへの直行便がない時間だったので弟がロサンゼルス経由でカナダの母につきそうため飛行機で向かい、親戚の計らいで葬儀が終わり、私と弟のアパートに母は弟と父の遺骨を抱えて帰って来ました。
私の父について考える時、どうして父親は立派で、一家の主で、世間から一目置かれて、無様な姿は外には見せたくないのか、本当にみえっぱりでいやだったと今でも思いますが、そういうプライドを持ってしまうのにも社会からの男性の悲しい刷り込みがあって、そんな心のせめぎあいで身を滅ぼしたのかなと思うようになりました。
具合が悪いから治療を受けたい、お金が無いからだれかに縋りたい、究極、素の人間になって愛し愛されたい、と思ってもいいのではと考えました。漫画の中で、父親は家族団らんでぬくぬくしたいけれど子供が食べたいだろうから美味しい物を買ってきた、と言わなければならないうえ、色々なしがらみから逃れてなにかの形で成功して「子供に尊敬されるちゃんとした父親になりたい」と思っている。
だけど男親だって、世間体や欲やプライドがなければ、ただ愛が大切だとほんとうは知っているんじゃないか、そう思って新約聖書の有名なコリント人への第一の手紙13章を最後の場面にかぶせました。この文が素晴らしいと思うのは聖書に書かれているのに「信仰」よりも「愛」が大いなるもの、と書いてあること。そしてその通りだと思います。じつは原作ではアレハンドロは最後まで生きているので勝手に殺して葬式にしてしまったのは私ですが、お許しいただけて何よりです。
そして読んだ人の心に何かが残るのなら、私は幸せです。