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梅雨明け、思うこと

 長い長い梅雨が明けた。まだまだ湿度は高くてじめっとした空気は変わらないが、青空をただぼーっと眺める時間が増えたことはとても幸せだ。太陽の光を浴びるだけで身体が喜んでいる(気がする)。身体が喜んでいると心まで喜んでいる(これは気ではなくほんと)。

 昨日、すごく久しぶりに会った後輩に「あみさん、すごく雰囲気柔らかくなりましたね。」と言われた。確かに、20代前半の私は難しい顔をしながら自分にも他人にも厳しかったと思う。

人の前に立つときは、愛想良く見せていた。逆に自分のことを考えたり、目の前の相手の相談に乗るときは眉間に皺ばかり寄せていた気がする。それは、自分自身や相談事を客観的に考えるためにひたすらクリティカル・シンキングを繰り返していたからなのだと思う。粗探しをするわけではない。前提を疑い、思考の偏りに気づかなければ、現状を打開することなんてできないと思っていたからだ。

クリティカル・シンキングの次はロジカル・シンキング。とにかく思考の型に当てはめて、物事を考える癖がついていたのだ。納得いかないことは気に入らなくて、納得いくまで議論したくなってしまう(めちゃくちゃ噛みついていたなあ)。

行動力もある頭でっかちだったなと思う。頭の中の正しさをひたすら信じていたし、”正しい”になるまで絶対諦めなかった。だから、20代前半の選択には後悔をしていないし、全てが今に繋がっていると思っている。

柔らかくなったのは、圧倒的人間性を持ち合わせる上司と対話を繰り返すことで、ありのままの今の自分を大事だと、素敵だと思えるようになったからだろう。

自分のことを大事にするというのは頭の声ではなく、心からの声、身体の声に耳を澄まし、その声に従うことなのだろう。”わからない”ことをどうにかして分かろうともがくのではなく、”わからない”自分の不完全性を許容できるようになった。答えや正しさを求めるのではない。

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ここまで書いてて、今日は全然そんな話がしたいわけじゃないのになってなった。いいの、これは自己整理ノートだから好きに書く。

昨日、最愛の友人の子供が生まれた。本当に、子供の頃からなんだかんだ付かず離れず、お互いに心の底から信頼し合っている友人。ここ数年は生きている場所が遠く離れていても、定期的に連絡を取り合ってありのままのお話をするような、肩書きだとか見栄とかそんなものどうでも良くなるくらいそのままの私でいられる友人。

夜中に陣痛がきたと連絡がきてから、ずっと心がざわざわしていた。妊娠期の苦労も聞いていたからこそ、本当に無事に生まれてきて欲しいと祈り続けていた。小さな生まれたての赤ちゃんの写真と共に、無事に出産しましたの連絡がきた時には涙が出た。

結婚、出産、育児。私にはまだまだ現実味のない話だけれど、友人のライフステージがどんどん上がっていくことに対して焦る気持ちがないわけではない。もう26歳になるのだから、そろそろ真面目に考え始めなきゃなと思い始めている。(そうそう、こないだ事故を起こした時にお母さんから「親はずっといるわけではないのだから、支え合えるパートナーをちゃんと見つけなね」と言われた。)

でも、どんなにライフステージが異なっていたとしても(私が独身貴族になったとしても)、友人とは一生思い合える仲なんだろうなって思う。だってもうすでに、彼女の幸せが私の幸せなんだから。

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人を愛するということは、今のその人を見つめるだけではなくて過去も未来も抱きしめることだと思う。

その人がその人たる所以も、その人が見つめている未来も全部ありのままを受け止めて、ただその幸せを祈ること。”こう在って欲しい”なんて期待を押し付けずに、そのままのその人を抱きしめることが愛することなんじゃないかな。 

どこまでも無垢で純粋な愛する気持ちを、私は持ち続けていきたい。


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