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ターニングポイントの話

昨日は怒涛の1日だった。修学旅行の事前オンライン講座をした後に、雑誌の取材からの打ち合わせが何本か…という私にしては珍しい忙しい1日だった。

修学旅行の事前オンライン学習でお題としてもらっていたのは、ソーシャルビジネスと社会課題について。高校生にお話するということで、私の進路選択からソーシャルビジネスに参画するまでのお話をさせてもらった。

群馬県という海なし県出身の私が、沖縄で環境活動に取り組んでいるというのは、側から見たらすごく意外なお話なのかもしれない。”自己選択”を何度も繰り返して、今の私を作ってきた原点の話を今日はまとめておこうと思う。

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遡ること中学2年生。私は左膝に大きな怪我を負い、8時間に及ぶ手術と1ヶ月の入院、半年以上松葉杖の生活にリハビリのための病院通いを余儀なくされた。

ひょんなことで左膝が脱臼してしまい、軟骨は割れ、靭帯は切れ、ぼろぼろになっていたのだ。生まれて初めて行った整形外科では、もともと膝が外れやすい骨の形をしていることが判明した。今回は左だったが、いつ右が脱臼してもおかしくないとも言われた。(今思えば、何もないところ足に力が入らなくなって転んだり、スイミングスクールで平泳ぎをした時に感じた膝の違和感は亜脱臼を繰り返していたのかもしれない。)

ガクガクになった膝は手術によって1ミリも動かない状態になり、泣きながら、1日でも早く退院するためにリハビリと検査の日々に励んだ。おかげで、本当は2ヶ月以上入院しなければならないところを退院を早めさせてもらった。しかし、退院する日に担当医から告げられたのは、

「50代、60代になる頃には必ず膝の関節症にかかる。程度はどれくらいになるかは分からないが、いつかは歩けなくなるでしょう。また、左膝下の神経は手術によって傷つけられたため、一生痺れのような不自然な感覚は治らない」

と。

何度も泣きながら、痛みと体が自由に動かない苦しさを乗り越えた14歳の私にはあまりにも重たい言葉だった。歩けないもどかしさが何十年か後には、通常の状態になるのか、と。もちろん、できないことはたくさんあるとは思っていた。それでも人生のゴールというか、リミットが決められることに絶望した。

そんな宣告を受けた退院の日の帰り道、運転席の母は私に

「あみちゃんには自由に動き回れる時間の期限があるんだから、やりたいと思ったことはそう思った時にやっていかないといけないね。」

と伝えた。ただただ絶望するのではなく、この自由で若い時間をどう生きるべきかを教えてくれたのだ。母も相当ショックだったと思う。ここまでなんの怪我も病気もしなかった子供が、突然歩けなくなるという宣告を受けるのだもの。後に父から聞いたことだが、手術の前日の夜、母は泣きながら「丈夫に産んであげられなくてごめんね…」と父の前だけで泣いていたらしい。私の前では1ミリも泣いたり、弱気なことは言わないのに。

母は高校を卒業してすぐにOLになって、20代前半で”好きなことをやりたい”とヤマハの先生に転身して朝も夜も関係なく働き詰めるような人だ。私の両親は中学校の同級生なのだが、それこそ昼ドラのような駆け落ちをして結婚した。たくさんの壁を乗り越えて結婚した先で、子供を授かっても1人目は流産。そして、やっとの思いで生まれたのが私だった。

左膝の手術跡を見て、左膝下の痺れを感じる度に、私は14歳の冬を思い出す。若く自由に生きられる時間の有限性と共に、母の言葉を。

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小学生の頃、「家族に自分の名前の由来を聞きましょう」という課題があった。二宮あみ。自分だけ名前に漢字が使われていないことがすごく嫌だった私は喜んでこの課題に取り組んだ。父から言われたのは、

「”あみ”にそんなに意味はない。ただ、どんなに頭が悪くても、何にもできなくても自分の名前だけは自分で書けるように、見つけられるようにひらがなにした」

ということだった。その当時は、友達のお名前みたいに素敵な願いが込められているわけでもないし、ましてや”頭が悪い”と言われているような気持ちになってすごく嫌だった。

でも今ならわかる。自分の期待を押し付けずに、私がどんな子だったとしても幸せに生きられるようにという広く大きな愛を。全てを受け止めようという両親の覚悟を。

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中学2年生、退院の日の母の言葉は私にとって生き方のターニングポイントだった。

自由な時間が短いのだからこそ自分本意に生きていきなさいとの言葉の裏側で、私の人生は私だけのものではないと思ったのだ。それは、親の期待に応えなければいけないという枷ではなくて、私だけのものではないのだからこそ”私が幸せに在るべきだ”ということだ。

幸せとは何か、それは心の声に従って生きることなんだと思う。どこで生きていきたいのか、何を使命に感じるのか、誰と一緒にいたいのか、何をしたいのか。頭で考える言葉ではなく、心からの声に耳を澄ます。そして、誰よりも自分の心の声に忠実でいてあげること。私が決めることは、全て私の心からの選択だ。その選択の繰り返しが人生なのだと思うし、失敗だ…と思うことがあっても後悔はしない。

両親の元を離れて8年。両親から進学のことも、就職のこともとやかく言われたことはほとんどない。(シェアハウスしたいと言った時に、家族が沖縄に泊まれなくなるからダメ!と言われたくらいだ。笑)

たまに電話する時に色んな報告をするが、「あみちゃんがいいと思ってるならいいんじゃない?」と特になんのアドバイスもなく、他愛もない話をする。

両親が私という存在に最大限の愛を注いでくれるからこそ、私は両親にとって自慢の娘でありたいのだ。人の評価ではない。両親が心から”あみちゃんは幸せに生きている”と感じられるように。


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