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ここ最近の大変な混乱を振り返って

多分、これを記しておくことが私のためだと思うから書く。

1週間混乱し続ける日々だった。
自分の心からの欲も、言葉も何もかもが見えなくなってまるで腑抜け。
最低限のお仕事をして、あとはベッドの中でグーっと泥のように眠り続けた。

ことの発端は多分煙ばばあのところで私の置かれている状況や、これからのことを教えてもらってからだろう。
不思議なことに、煙ばばあには夢で呼ばれた。
私に憑いているよくないものを払ってもらって、私の今の問題を明らかにされて、私のこれからを見られてしまった。
正直、私はそこまでスピリチュアル的なことに敏感な方ではなかったけれど、それから立て続けに大きな波のように問題が起こって、全てをさらっていってしまったのだ。

でも、よくよく考えてみるとそうなって当然だったのかもしれない。
言い知れない違和感をずっと感じていた。
その正体は、心と言葉が一致しなかったからだった。

人間関係の上で、言葉で伝えるというのは非常に大事な手段だと思っている。
それは、言葉の美しさへの感動、刃物のように心を痛めつけるその鋭利さ、遠く(違う世界だったりする)へ行く手段になることを本を読みながら実感しているからなのかもしれない。
言葉のいらない関係だって、もちろん存在する。
言葉のいらない関係は、言葉にする必要もないほどお互いを手放しに愛している段階でないと成し得ない。(現に、家族や数人の友人とはそんな関係だと思っている)

今話している言葉と、私にだけ内緒で伝えてくれる言葉が異なる場合、私自身がとてつもなく混乱してしまう。
それでも、社会性のある表面的な私は「人間関係を保つ上で、伝える相手と伝える言葉が異なるのは仕方ない」と取り繕った笑顔でのうのうとその場面をやり過ごしてしまう。
それは、私が一番苦しいことだったのかとやっと理解した。

表面的な「二宮あみ」としての私と、内側の奥底にいる私が乖離してしまっていたのだ。
そんな状態をずっと続けられるわけもなかったのだ。
随分、表面的な「二宮あみ」ががんばり続けてしまった。本心ではない言葉をまるで本心のように伝えてしまっていたような気がする。

私は言葉で周りが傷つくのも、周りの人が傷つけるような言葉を使ってしまう状況であり続けるのもとても嫌だったのだ。
嫌だったから、私は考えることも放棄し、じっと我慢して、私自身の心の声を聞くこともやめてしまっていた。そして、何もかもがわからなくなって混乱してダウン。
悪循環すぎて嫌になっちゃう。

本心からの言葉が聞こえなくなった時(嘘や上部の言葉で取り繕われてしまうこともあれば物理的に会話がなくなる時のこと)、私とその人との関係性が終わりに近づく合図なのかもしれない。
いや、関係性に終わりはないな、関係性が変化する合図なのだ。

一度結ばれた縁は一生続くと思っている。
今すごく強い引き付け合いをしている人もいれば、今は疎遠だけど10年後には隣にいる人もいるかもしれない。
人間と付き合っていくっていうのはそういうことなのかも。


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