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俯瞰する

先日、長い付き合いの友人から「あなたは、俯瞰してものごとを見るのが得意だね」と言われました。
たしかに そうかもしれません。

そういえば、小学校3年生のときに 家の近くで7~8人の友だちとかくれんぼをしていて、建物の屋上に上って、隠れている友だちとそれを見つけようする鬼の役の子どもの動きを上から観て楽しんでいたことがありました。
鬼だけでなく他の友だちも  私がまさか屋上に隠れているとは思わず、最後まで私は見つからず、あきらめてみんなが家に帰っていくのを上から眺めてほくそえんでいた覚えがあります。
翌日学校で、遊んでいた友だちに「実は、屋上にいたんだよ!」と種明かしをして得意になっていました。 

俯瞰するのは 楽しい。

たくさんの動いている人やモノが動いていないモノの中でどういう関係にあるのか? それがどう変化しているのかを観察して、「なるほどね!」
と思えるのと、
観られている人たち同士や動いているモノ同士がお互いの動きを予知していなくて、突然のように街角で出くわすのを見る
俯瞰していると、そうした街角で出くわすことが動いている当事者よりも少し前に予測できます。
「ほらっ、出くわした!」

そういうのが 楽しいのかもしれません。

会社の企画部門で働いていた20代のころ、 ベテランの上司から
「よく、” 木を見て  森を見ず”  というだろう? 企画マンにとってあれはたいせつなことだと思う。物事を俯瞰して大きくとらえることはたいせつだ。   ただし  さらに付け加えるなら   
われわれ企画マンは ”木を見て森も見て”  さらには ” 木の葉も見る ”ことがたいせつなんだよ。」と言われた。
おそらく  俯瞰して考えてますと嘯いておおざっぱにしか物事をとらえることのできなかった私にベテランの上司が伝えたかったことは、
” 魂は細部に宿る ” ということだったのかもしれません。
その後、”鳥の目、虫の目(、魚の目?)” ということばがあることを知り、たしかに俯瞰するのは楽しいけれど、それだけでは物事を観たことにならないし、本質をつかめないんだなと年を重ねるにつれて思うようになりました。

最近は 俯瞰するというより、ただ 大雑把にぼや~っと物事をとらえることが増えたように思います。
「 まぁ、どうなってもいいか? 」
と思えるようになったからでしょうか。 



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