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運命は描きかえてしまえばいい、のだろうか。

わたしの運命のひとだと思っていたひとが、そうではなかったかもしれないことは、あの日から2ヶ月くらい経つと、なんとなくそう思えるようになってきている。ただし、そもそもわたしがなぜ彼を「運命のひと」だと思ったかは、あれからしばし考えている(「運命」という言いかたは、やや大げさで少しずれている気もするけれど)。

そもそも「運命のひと」というか「soulmate」なんてものは存在するのか、わたしの考える「運命のひと」のクライテリアとは、現代特有の「運命のひと」を探し続ける無限ループ、あたりのことを、わたしの大好きな映画を交えて考えてみる。

何をもって「運命のひと」と捉えるかは、人によって色々だと思うけれど、まずは、わたしが考える3つのパターン。

①何度も偶然会ってしまって「もしや?」と思うパターン

渋滞中の感じ悪すぎた出会い(?)から、ピアノに感激したのもつかの間の感じ悪い再会から、最高に笑える3度目の出会いで運命を感じてしまう「ラ・ラ・ランド」のミアとセブや、

会えば喧嘩(口論?)になるのに、偶然の再会を繰り返しているうちにそれぞれがお互いがなくてはならない運命の相手だと気づく「恋人たちの予感」のサリーとハリーなど。

②(一晩なのに)こんなに神がかったケミストリーを起こしてしまうパターン

電車で出会ってからの一夜限りのウィーン旅行の運命的なケミストリーにはじまり、「ビフォア・サンライズ 恋人までの距離」「ビフォア・サンセット」「ビフォア・ミッドナイト」まで約20年に渡って、異国の地で別れと再会を繰り返す二人とか、

ひょんなことから、印象最悪の出会いから、お互いを利用し合っているうちにお互いに運命を感じはじめてしまう「或る夜の出来事」のエリーとピーター。(スカートちらりのシーンが有名だけど、この毛布で部屋を区切るシーンがたまらない)

③全く意図してなかった、あるいは気づいてなかったけど運命(あるいは逃れられない宿命に近い)パターン

この映画に登場する男性たちは、自らその道を選んだ感が強い(というかストーカー気味?)ものの、あるきっかけで、愛した女性のそばにいることを余儀なくされる、そして自ら彼女たちに変化をもたらそうとする、運命というか宿命のような関係を築いたり、

子供の死、妻の鬱を乗り越えて、お互い相手しかいないある意味、宿命のような存在の「ぐるりのこと」の翔子とカナオなど。

どうもわたしは②のケミストリーパターンに陥りがち。いちばん実態がないことだから、思い込みで暴走しがちなんだと合点しつつ。今回「運命のひと」と思った彼も、わたしにはない知識のスケール感と、話の内容のマッチ度合、そして高め合えているという実感(はたまた勘違い?)、と気持ちが大暴走。

そもそも今回の例で言えば「運命」とか軽々しく言ってくる男性には要注意、という教訓しか残っていないけど、きっと心の奥底では「この人こそは」と思える人を探し続けてしまうんだろうなぁ。

「もっといい人がいるはず」、とエンドレスな(?) 探求を続けてしまう現代人についてはAziz Ansariも著書「Modern Romance」の中でたくさん書いているのだけど、この一言を自戒をこめて。

Okay, so no one said searching for a soul mate would be easy. 

と言っているそばから「グレイテスト・ショーマン」のこんな歌を聞いてしまうことになるとは、心はいつも振り回されるものだなぁ。運命は描きかえてしまえば良いのは目から鱗(ちなみに、この曲が使われるシーンはゼンデイヤとザック・エフロンのキラキラ感と切なさが爆発していて最高)。


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