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季節を間違えた蝉

冬の風がまだ残っている5月のある夜、私は蝉の鳴き声を聴いた。

タイミングが悪い。叔母も言ったし、母も言ったし、祖母も言った。タイミングが悪い。明日は歯医者だったのに。タイミングが悪い。こんな天気が良いのに。死ぬタイミングが悪いね。

あっという間だったよ。あまりに急な事で。ご愁傷さまです。お悔やみ申し上げます。ねえ。あまりに急でね。驚きましたよ。

焼香をしにきた「お客様」たちが口々に言う。「お客様」の素性はご近所さんだったり、遠い親戚だったり、祖父の仕事の取り引き先だったり。様々だ。

日常という縄で、心を強く締め付ける。時間は残酷だし、「明日」は絶対来てしまう。来て欲しくなくて、いくら布団でもがいても、月が私を癒しても、眩しすぎてクラクラする太陽は、また心を締め付ける。

悲しむのはもう疲れた。悲しむのって体力がいるんだよ。涙を拭かなきゃいけないし、鼻水をかまなきゃいけない。悲しくて悲しくて辛くて、心が体に鞭打ってる時は、そんなことさえも疲れてできない。

疲れた。何もかも。死にたいわけじゃないけど、ただ、ここから、この世界からポンと弾き出されて、透明になりたい。深い深い穴を掘って、そこに落ちていきたい。


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