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空気と骨、ミックス、リミックス

わたし、私の声が好きじゃない。

コンサートの後、来てくださった方と話していると、この言葉に出くわすことがある。

その方の声を聞きなおして、いわゆる声の音の部分だけではなく、その方の声がどのように響いているか、空間の中でどう動いているのか、できる限り伝えてみる。どんな声も詳らかにしていくと、織物の図柄を遠く近く見るようで楽しい。響きに言及していくと、織り込まれた錦糸がどのように壁に光を反射させているか?というような話になり、記述すればするほど新しく見つかるので止まらなくなる。

「○○さんの声は大きく言うと3つレイヤーがあって、それは単純に音の高・中・低の違いじゃない、さくさく・もっちり・ぷるんみたいな違いなんです。大別したこれらの成分が、空間内のどこで響き、どうその場所に滞在するか微妙に差があることが結果的に揺れを生んでいて面白いです。さくさくの成分は軽いんですけど軽いなりの重量があって、あまり遠くへ動かない。だから○○さんの声はこのさくさくで強く印象付けられるんです。聞いている人の目の前/耳の前により長く残るから。でも、あとのもっちりとぷるんは重いというよりは、重量の分よく運動するエネルギーを持っているというか…あれ?逆かな、抵抗が少ないのかな。聞こえとしては後方のあの角で比較的ゆっくり曲がる、何となく○○さんの身体が実態よりも大きく感じる理由はきっとそこにあって。あともっちりは、湿度...もしかして舌が長いですか?あ、薄くて横に広がっているタイプかな…」

あくまでも私の耳にはそう聞こえる、と前置きしながら、その風景を記述する楽しみに耳を傾けてくれている間、彼・彼女たちはまるで他人の話を聞くように「へえ」とその織物をのぞき込む。

そう、私が聞いているあなたの声とあなたが聞いているあなたの声は違う。
文字通り、他人事なのだ。

空気と骨、ミックスされた音

「わたし、私の声が好きじゃない」ではなくて、「え?これが自分の声?」「いつも聞いているのとちがうな」と誰しも感じることがある。録音・録画された声を聞いたときだ。多くの人がその違いに驚き、録音された声をあまり好まない。近くの人に「いや、こういう感じだけど」と言われて再度ぽかんとする。

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人間は自分の声を聞くとき、声帯⇒頭蓋骨⇒聴神経と体内で伝達されて聞こえる骨導音と、身体の外へ発せられた声が空気を振動させ外から鼓膜⇒内耳⇒蝸牛のリンパ液・有毛細胞⇒聴神経⇒脳と伝達されて聞こえる気導音の二つをミックスして聞いている。だから、空気振動だけを捉えた録音は、いつもあなたが聞いているあなたの声から骨伝導の音を差し引いた声音、異なる声の音だ。

発生源が同じで、ほぼ同時刻・同場所で聞いている声の音が、届ける私と届いていくあなたとでは異なるなんて、なんてロマンチックなんだ。このままのスリルを、このまま、このまま。

声のトレーニングをしていると、体感上・経験上、呼吸は自分の延長、声は他者だと感じる。声は自分から出てきたのに、他者だ。骨導音が聞こえる限り、空気を介してあなたに伝わる音を私は決して聞くことができない、録音はマイク(とレコーダー)とスピーカーの特性によってエフェクトがかかる、自分が絶対に聞くことのできない・手に負えない声を、すぐ目の前の人が聞いている。この絶対に越えられない壁が愛おしい。

…などと思っていたのですが。

朗読がもたらした、聞こえの変化

数年前、いくつかの文章をただ好きで読んでいた。

好きだと言いつつ、「好きだろう」の推測で初読みしているものもある。『グスコーブドリの伝記』は話を知らないまま読み進み終盤で「え…もしかしてブドリって、ブドリって…!」と途中から泣きながら読んでしまっている。『シグナルとシグナレス』はサブコンテクストがサブのレベルを超えていて面映ゆく、ニソニソ(にこにこ+そわそわ)しながら読んでいる。『遠野物語』は黙読している間は大丈夫だったのに、音読するにつれ一人の部屋が一人以上な気がして、怖くなって止めた。本当に怖かった。向田邦子さんの文章を読んでいると、ひと音節ごとに胸の中心で像が結ばれ言葉が花咲くようにほころんだ。この方は黙読するときに頭の中で音読するタイプの方だろうか、いや、違うな、音節ごとに温度を感じる方だったのかも、などと考えたりした。


練習しないし、録り直しもしない。今日読みたいと思った○○は、初読みだったり数年前に読み終えていたり、さっきお風呂で読み終わったところだったり。マイクを置いて本を開いて、ただ、読んだ。

「あれ?」

ひととおり読みたい宮沢賢治を読み終えたころだったと思う。
録音しているとき(ヘッドフォン無し)の声と、録音された声にほぼ差が無くなっていた。骨伝導でも聞いているはずなのに、録音がほぼ同じに聞こえる。慣れたのだろうか。録音された声を覚えてしまって、脳が補正しているのだろうか。

当時よく会っていた音響さんや録音エンジニアさんたちに聞いてみた。理由は概ね二つで、十中八九「録音された自分の声に慣れ、発声中も脳が補正して聞いている。加えて、録音に近い発声に、君が無意識に近づいていっている」。

人間て単純。慣れるからスムーズにもなるし、慣れたせいでうっかり生死をさまよったりもする。

子どもの頃、慣れた物事を探ってしまい、2つの動作ができなくなったことがある。「ドアを開けトイレに入って鍵を閉める」という複雑な動作を一瞬でやっている自分に気づいたとき、そのプロセスをスロー再生で見たくなった。ゆっくりやってみた。できない。できるのだが、異なる動作ごとをつなぐクロスディゾルブのようなin/outの瞬間が、プロセスをブレイクダウンして眺めようとすると、再現できない。シーンをつないで流れにできないから、一連の動作を行えない。2,3日で回復したが、その間ドアが開けられなくなった。(あれ?トイレどうしてたのか覚えてないな。)「階段を下りる」のはなぜできるのか?そのプロセスを知りたくて分解したら階段を下りられなくなった。二階から深い穴を覗くように座り込んだ。怖かった。後ろ向きでお尻から下りてみた。できた。でも一生ずっとお尻から階段を下りるの?これはその日中に解決。最初の一段目に足がかかった後、思い切って音に載った。各段が立てる音だけを聞いて身体を動かした。今でも実家の階段を下りきるまでに各段が鳴らす音の連なり、音楽を口ずさめる。階段を下りられなくなる前から、段々が奏でる音楽が好きで、鼻歌を歌いながら下りていた、それが功を奏した。大げさだけれど音に助けられた。Twin PeaksのRed Roomのシーンで流れる音楽の、サックスが始まる直前から聞こえるベースラインとよく似ている。

閑話休題。
録音の声と、自分が聞いている発声のギャップがほぼなくなった理由は、ほぼほぼ「慣れた」「脳が補正」「私自身も寄せて発声」でまとまるのだが、もう一説ある。ある音響さんが言った。

「空気振動だけで聞き始めてるのでは?」

言った瞬間、他の音響さんたちから「えー?」「ないない」となり、話はそこで立ち消えた。その音響さんと私は顔を見合わせてニソニソした。無くは無い話だとお互い密かに思ったのだと思う。でも科学的にどう説明できるか今もって考え中だ。

この怪しまれる別説と少し関係のある話を、今度書こうと思う。
音を聞くとき、耳がどこにあるのか。
音を聞くとき、耳がどこに居るのか。
耳の現在地が複数存在すると思えた時のこと。


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