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出会うべくして出会う人。

今20代前半の私には、工藤さんという65歳の女友達がいます。

もともとは私の母の友達。今は私と工藤さんの2人で会う仲です。工藤さんは、某省庁で働いている方です。主婦である私の母は、なぜ省庁で働く工藤さんとお友達になったのか覚えていないそうです。工藤さんと知り合った経緯について何度聞いても、「それがわからないのよ。気づいたらお互い定期的に会う仲になっていた。」と母は言います。


先日、私は運動のために家から徒歩30分の所にあるスターバックスに行きました。トールサイズのユズシトラスティーを注文し、席を探そうと店内を見回したとき、見覚えのある顔がありました。工藤さんでした。私はすぐに声をかけました。工藤さんの隣の席が空いていたのでそこに座り、お話することにしました。お互いの近況、家族の話、工藤さんの3歳のお孫さんの話など、私たちは止めどなくしゃべり続けていました。

何の話をしていた時だったか。工藤さんがこう言いました。

「しおりさん、あなたの年齢じゃまだピンと来ないかもしれないけれど、この年になるとね、縁のある人、ない人がいることを痛感するの。しおりさんやしおりさんのお母様とは縁がある。」

確かに、スターバックスで工藤さんと会ったことも、私の母が関係性を思い出せないにもかかわらず工藤さんと長くつながっていることも、「縁」の一言で説明してしまうのが最も妥当で、シンプルなのかもしれないと思いました。



その日から、私は「縁」について考えるようになりました。







私は、「縁がある人」はいると思います。自分から働きかけなくても、自然につながってしまう人はいると思う。でも、、、







私には、昔は仲良くしてたけれど今は会いにくくなってしまった友達が何人かいます。その友達を、会いにくくなってしまった人たちを、「縁がなかった」の一言で片付けてしまうのは、シンプルすぎるように思うのです。

会いたくても会えない人を「縁がない人」として一括りに片付けるのは嫌だなと。

少なくとも私は、会いたい人に会いたいと伝えたいと思うんです。縁はなくても、気持ち次第で関係性は変わると信じていたい。






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