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神社は宇宙。神社への見方が変わった伊勢神宮参拝について。

元々私は関西在住ということもあり、神社仏閣は好きだった。何か家族で出かける機会があると京都へぶらり。奈良へぶらり。アクセス的に京都へ行くことが多かったか。有名どころは何度も足を運んだ。八坂神社、金閣寺、銀閣寺、伏見稲荷、三十三間堂等々。正直、さしたる感動はなかった。子供だったし。何が良いのかよく分からないまま、ただ足を運んでいたように思う。そんなことより外で食べるご飯の方が楽しみだった。神社の持つ意味、歴史、そんなものには微塵も興味がなかった。世の大半の人はそうではないか。しかし、私のこの神社仏閣への見方が180度変わったきっかけがある。三重の伊勢神宮参拝だ。三重県伊勢市は、私の母方の祖母の実家がある割と縁の地なのだ。初めての伊勢神宮参拝も、親戚の叔父さんのお見舞いに行くことがきっかけだった。

そもそも、伊勢神宮ってなんか凄いらしい。日本で1番凄い神社でしょ、程度の認識しかなかった私は、折角行くのだからと行く道中色々調べては皆に教えていた。神社での正しい参拝方法だとか、神話の話なんかしてたように思う。日本神話はちょっと興味あるくらいだったのだけど、これをきっかけにちょこちょこ調べるようになる。日本神話は日本の誕生を神話として後世に語り継いでいるのだけど、私はどうももっと深い意味があると思っている。これはオカルト的な話になるのでまた別の機会に。そして、日本神話に興味が出て、日本の歴史に興味を持つようになる。何故なら歴史を知らなければ神話を真に理解することが難しいからだ。神社仏閣建立には、日本の歴史が深く関わっている。それは、遡れば日本の誕生そのものにも関わっているのだ。

日本一のパワースポット

という触れ込みでよく目にする伊勢神宮。私はそういったものをあまり感じないタチなので、正直そういった面ではあまり期待していなかった。伊勢神宮には内宮と外宮があり、私の調べたところによると、外宮を回ってから内宮を回るのが正しいルートらしい。しかし、この時は時間がなかったのでショートカットで内宮のみ回ることに。初めて伊勢神宮を見た感想としては、「お、流石日本一の神社」程度だったのだが、鳥居を潜り、1歩足をそこに踏み入れるとそこは全く別空間のような気がした。私の印象としては、宇宙のような感じだ。空気はこんな私でも感じるくらい澄んでいたし、マイナスイオンか何なのかは分からないけど清浄な感じがふつふつと感じられた。夏に行ったのだが、その中は驚く程涼しかった。この時感じた何か自然への畏怖のような感情。それを神社で感じたことは今までなかった。私は圧倒された。その場所は、過去と現在を繋ぐ中継地であり、歴史の証人であり、神様のおうちであり、宇宙だった。そこは確かに私達の住む世界とは隔絶された場所だったのだ。私は初めて、神様は居るのかもしれないと思った。感覚的に。こうゆう場所が今存在している。それが私には衝撃だった。

概念としての神様が実在する畏怖の存在へ

神様の概念について、少し話を。神様の概念というのは人によって感覚が異なる。何か宗教を信じていたら、その宗教で崇められている神こそがその人にとっての神だろう。その中でも、日本人の宗教観、神様観というのは独特だ。日本には昔から神道という宗教が存在し、伊勢神宮も神道だ。日本の神社は神道。寺は仏教ということになっている。神道の教えでは神様は沢山居る。八百万の神様と言われるくらい、沢山の神様が日本には居る。そもそもこの神道には、長く使っている物には神様が宿るといわれている。この考えはアミニズムと言われ、多神教の考えの根底にある。多くの日本人は、意識するしないに関わらずこの神道の考えが根底にあると思う。他の方の神の概念はいざ知らず、私個人の神の考え方としてはやはり神道が1番しっくりくる。私は神は2通りの意味で存在するとしている。それは、創造主としての原始の神と、昔からこの地に住み着く自然としての神だ。私は神は概念等ではないと思ってる。確実に存在する。これは私個人の考えなので悪しからず。私は景色を見た時、美しいと思う。この美しさの中にこそ神が存在すると思っているのだ。この世界を構成するその無限の要素が集まり、実体化し、その景観を作り出している。その一瞬のきらめきの中に神は居る。居るというかは、「居た」という方が表現として正しいか。そして、土地の神様の存在。私はこの2つは似て非なるものと解釈している。土地の神様はどこにでも存在する。土地の神、川の神、森の神...これについては「千と千尋の神隠し」をご参照して頂けると分かりやすいかと思う。日本の神は、決して優しいだけの神ではない。時に荒ぶり、地震を起こし私達を苦しめてきた。しかし、神の本質はそうなのだ。私達日本人はそんな自然を恐れながらも共存してきた。それは決して生易しいだけの存在ではないのだ。「自然」。それが、ありのままの神の姿だと思う。

私は、土地に息づいてきた神の存在を初めて意識した。山に入った時のあの「ここは、人間の場所じゃないな」という感覚が、そこには確かに存在したのだ。それぐらい伊勢神宮参拝は衝撃だった。私の中の概念がひっくり返されたのだ。神は決して概念等ではない。時に私達を守り、時に荒ぶる畏怖の対象なのだ。

日本の歴史に興味を持つ

かなり段階的にだが、日本の歴史に興味を持つようになる。日本神話は日本の歴史と密接に関わっているし、現代の日本にも繋がっている。少しずつではあるが、歴史を勉強し始める。今までなんの気なしに見ていた神社仏閣だが、誰が何のために、いつの時代に作られたのか気になるようになった。日本神話との関わり、天皇との繋がりも。日本の歴史をざっくり知るには、個人的に手塚治虫の「火の鳥」なんか分かりやすくて面白くていいと思う。あくまでざっくりね。ほんとに日本は恵まれてる。子供は無意識のうちにまんがやアニメを通して日本の歴史を学び、科学を学び、宗教観を学び、哲学を学び、倫理観を学んでる。日本人はドラえもんを知っているからタイムパラドックスを何となく理解しているし、使い方によって道具は凶器にもなり得ることを知っている。これを幼い頃から感じている意義は大きい。日本のアニメ、まんがが日本にもたらしたもの、についてはまた別の機会に語りたい。

日本の歴史や神社建立について調べていくと、歴史と神話は複雑に絡み合っていることが分かる。いつの時代も宗教というのは政治的に利用されることを避けては通れない。神道もご多分に漏れずその口だろう。天皇の神聖さを民衆に知らしめる為に作為されている。

奈良県には、「日本書紀」において、日本建国の地とされる場所がある。橿原という。

天照大神の血を引く神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと)(後の神武天皇)が、豊かで平和な国づくりをめざして、九州高千穂の宮から東に向かい、想像を絶する苦難を乗り越え、畝傍山(うねびやま)の東南の麓に橿原宮を創建んされました。第一代天皇として即位されたのが紀元元年、今からおよそ2,600余年前のことです。(出典元:橿原神宮公式サイト)

橿原神宮の近くには神武天皇陵、畝傍山もあり、正に神話が息づいた場所といえるでしょう。日本書紀、古事記によると、初代天皇とされる神武天皇は日向(宮崎)地方から、瀬戸内海を東に進んで難波(大阪)に上陸したが、生駒の豪族に阻まれたため、南下して熊野に回った。そこで出会った三本足の「八咫烏」(やたがらす)というカラスに導かれて、吉野の険しい山を越えて大和に入り、周辺の勢力も従えて、大和地方を平定した。そして、紀元前660年の1月1日(新暦2月11日)に橿原宮で即位し、初代の天皇になったという。

「八咫烏」は神話ではキーとなる鳥で、八咫烏そのものを祀った八咫烏神社というものも存在する。こちらも奈良県の宇陀市にある。奈良県は他にも日本最古といわれる大神神社も存在し、日本神話の要の一端であることは間違いない。ちなみに八咫烏を調べてみると色々と面白いことが分かってくる。

八咫烏とは古代氏族の賀茂氏の一部が日本における神道、陰陽道、宮中祭祀を裏で仕切っているとされる組織。正式名称は八咫烏陰陽道。飛鳥昭雄、白峰、古歩道ベンジャミン、三神たける、中矢伸一、RAPTなどが存在を主張している。八咫烏同様の組織として、明鳥などが存在する。(出典元:八咫烏Wikipedia)
八咫烏は平安時代から幕末にかけて主に迦波羅(かばら)と呼ばれる秘術を核とした神道、陰陽道、宮中祭祀を執り行い、京都御所における食事や掃除、湯浴みに至るまで天皇の内廷皇族の日常的な事柄を一手に引き受けていたという。八咫烏は下鴨神社境内にある糺の森河合神社を仮本宗と位置付けており、組織内では八咫烏神、賀茂健角身命、秦伊呂具、役小角、聖武天皇、八咫烏開祖の吉備真備を祭神として奉っている。また八咫烏は大鳥と呼ばれる3人の実質的指導者がいるとされ、三位一体で金鵄(きんし)という称号で呼ばれ、俗称で裏天皇ともいわれているとされる。(出典元:八咫烏Wikipedia)

ちなみに金鵄も「日本書紀」に登場する。金鵄と八咫烏を合わせて「金鵄八咫烏」と呼び、京都にある賀茂神社に祀っている。

何となくオカルトっぽいと思った人も居るかもしれない。ウィキの情報なので、全ての情報を鵜呑みにするのは危険だが。私は元々オカルト系も興味があるのだが、面白いことにオカルトも神話も歴史も、根は一緒なのだ。全ては繋がっている。それは一つ一つは関わりがあるようには一見すると見えない。一つ一つを別で調べていって、興味を持たなければ辿り着けないようになっている。実に巧妙。面白い。

また、実際に行ってみなければ分からないことも多い。自分で感じ取るしかない部分も多分にある。

神話は恐らく手が加えられているだろう。しかし、そこには手を加える理由がある。何故そうしたのか?それを調べ、考えていくと色んな事が見えてくる。何故神話が生まれ、そして神社が建立されたのか。神社は、意味があって建てられた。誰が祀られているのか、いつ建てられたのか、天皇と関わりはあるのか、そんな沢山の思いが込められ神社はそこに存在する。昔この日本に住んでいた人々が五穀豊穣を願い、疫病が止まるのを願い、参拝していた。それは今も昔も同じなのだ。神様はずっと見ていた。私たちは死んでも神は常に在り続ける。それはとても切なくて、美しいものだなと思う。

神社はあちらの世界とこちらの世界を繋ぐ場所だ。私達はそこで、見えない神に思いを馳せる。遠い遠い昔の人たちに思いを馳せる。神社はそんな場所なのだ。それはとても美しく、尊いものだ。



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