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同士よ、怒れ

物騒なタイトルで申し訳ない。今回は、「怒る」ことの大切さを語ってみたい。

今回の文章は、精神科医である泉谷閑示さんの著書「「心=身体」の声を聴く」「普通がいいという病」「「うつ」の効用」を続けて読んだ、長年抱えていた疑問や謎が氷塊して魂の涙ボロボロだった私の読書感想文と思って頂きたい。

他の文章でも書いたのだが、私は長年に渡り自分の不完全さに悩み、苦しんでいた。器量も良くない、要領も悪い私は上手く社会に馴染めず四苦八苦していた。仕事場でヒステリックに怒ることもあったし、泣き出すこともあった。社会人的規範で言えば、完全に社会不適合者である。それでも、少しはまともになりたいと感情のコントロールをしようと色々自己流で勉強していた。潜在意識、自己啓発、禅、哲学。色々齧った。こうした自己アプローチにより、少しはマシになりつつもあったが、どうにもまだ大きな澱があるような気がしてしょうがなかったのだ。それはハッキリとした形は成さなかったものの、私の心にモヤモヤとした霞をかけていた。その霞の正体が何なのか分からなかった。そんな折、私は長年の趣味である本屋ザッピングをしている時(本屋でただただ気になった本をインスピレーションに従って見つけるというもの)泉谷閑示さんの著書にめぐり会ったのだ。社会不適合者の私なので、精神科、心理学といったジャンルは本屋の中でもよく足を運んだ。泉谷さんの著書はそこにあった。運命的な出会いだ。私は立ち読みで試し読みをし、少し読んで購入を決めた。彼の著書には私がずっと自己の問題として抱えていた自己不全、その私の問に対する確信ともいえる答えがあった。それは、私が予想もしなかった、しかし薄らと気付いてはいたものだった。

要は、私は別に狂っていないし、おかしくもないし、いや寧ろまともだし、賢いし、天才なのでは?という点である。世で言うところの「普通」に当てはまらなかった自分を嘆いてばかりいた私だったが、彼の著書を読んで目からボロボロ魂の涙が零れ落ちた。彼は言ってくれた。私はまともだと。狂っているのは世界の方だと。

沢山の気付きと、今後の人生の指針ともいえる「何か」をつらつらと書きたい。同じように「普通」でない自分に悩んでいる人にはオススメの著書である。

普通とは何なのか

泉谷さんの著書のなかで頻繁に登場する、この「普通」という言葉には、呪いのようなものがかかっている。その呪いとは、泉谷さんの言葉を借りると、「言葉の手垢」若しくは「言葉にくっついているある世俗的な価値観」のことである。この「普通」という言葉の背後には、「普通はいいことだ」「普通は幸せなことだ」という価値観がある。そして、そう思っている人の中では「普通」は「多数派」と密接に結び付いているに違いない。泉谷さんはそう書いている。

私が長年苦しんできた「普通」という言葉そのものの価値観を泉谷さんは疑うように書いている。言葉はただ単に物や事象の名称であるだけではなく、個人に密接に由来する部分が大部分を占める。「愛」とか「悪」とか、人それぞれ定義は異なるだろう。一般的な意味でいえば、それこそ辞書を引けば事足りる筈だ。しかし、言葉はそんなに単純なシロモノではない。

泉谷さんは、「普通」という言葉の背景にある社会の圧力を批判している。社会で言うところの「普通」とは、人に迷惑をかけない。規律を乱さない。勤勉に働く。これは社会にとって都合のいい「普通」だ。要は社会にとって都合のいい人間に作り上げる為、私達に「普通」というある種の「異常」を刷り込んでいるのである。

社会は「普通であれ」と言う。その方が、社会にとって都合が良いからだ。私達人間は生き物なので、個人個人で生きて来た過程も違うし、由来も違う。ましてや、生き方なんかは100人居れば100通りの生き方がある筈だ。しかし、この世界の大多数を占めているのは、一様に同じような生き方だ。良い会社に入って、良い人と結婚し、子供を産んで、平均寿命まで生きる。それが、この社会の「普通」の幸せなのである。

「何故働かなくてはいけないの?」

「何故生きなくてはならないの?」

「何故死んではならないの?」

今まで無数の「何故」、を口にしてきた私だったが、どうやらそうゆう疑問を口にすることは、忌避されるようだと気付いたのはいつ頃だったか。「普通」の人はそんなことに疑問なんか持たないし、「普通」の人はそんなことを大っぴらに人に聞いたりしないし、「普通」の人はそんな疑問を馬鹿馬鹿しいとすら思うのだ。その沢山の疑問に真摯に、納得のいく答えをくれる大人は居なかった。だからこんな疑問を持つ自分は異常なんだと思った。こんなことばかり考えて、人と同じラインに立てない私は異常なんだと。

この世界が不思議で仕方なかった。この世がどのように成り立ち、機能しているのか。何故世界は「在る」のか。どうして皆疑問を持たないのか。息苦しくてたまらないのに、どうして皆普通に息をしているのか。こうした疑問を口にしたら、皆一様に「何言ってんの。」と言う。ある意味でそれは正しいのかもしれない。言ったところで、世界は「在る」のだから。だけども、心の底にある衝動が湧き上がるのを抑えられない。

自分はずっと死にたかった。楽に死ぬ方法を必死で探していた。こうゆう死への願望への答えも著書にはあった。要は、私は「こんなくだらない人生を生きるくらいなら死にたい」と嘆いていたのだ。「こんなに死ぬように生きるくらいなら死にたい」と。他人からの視線ばかりを気にし、他人本意で生きて、主体性の欠片もない自分への失望と怒りを、私の心は必死になって訴えていたのだ。

泉谷さんの著書、「「うつ」の効用   生まれ直しの哲学」の中で、夏目漱石の「わたしの個人主義ほか」から引用している文章がとても良かったので私もここに引用させて頂く。

ああここにおれの進むべき道があった!ようやく掘り当てた!こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたははじめて心を安んずることができるのでしょう。(中略)もし途中で霧か靄のために懊悩していられるかたがあるならば、どんな犠牲を払っても、ああここだという掘り当てる所までいったらよかろうと思うのです。(中略)だからもし私のような病気に罹った人が、もしこの中にあるならば、どうぞ勇猛にお進みにならんことを希望してやまないのです。もしそこまで行ければ、ここにおれの尻を落ちつける場所があったのだという事実をご発見になって、生涯の安心と自信を握ることができるようになると思うから申し上げるのです。

引用:夏目漱石著「私の個人主義ほか」

実は夏目漱石自身も、もやもやとしたものを抱えていた人間の1人なのだ。彼は自分でもがきながらも道を見つけ、暗闇を抜け出した。だからこそ彼の言葉には血が流れ、心に響いてくる。

今、やりたいことがない人は慌てなくてもいいし、急がなくてもいい。嘆く必要もない。ただ、前に進もうと藻掻くのは止めるな。必死にもがけ。その先に道は必ずある。そして、その道は自分自身でしか見つけられない。

ツァラトゥストラの三様の変化

彼の著書では幾つも心の琴線に触れるものがあるのだが、その中でも印象深かったのは「ツァラトゥストラの三様の変化」である。これは彼の様々な著書で何度も書いている、とても重要な部分だと私は解釈している。

ドイツの哲学者ニーチェの代表作「ツァラトゥストラ」に「三様の変化」という章がある。そこでニーチェは、人間の変化成熟のプロセスを、動物に喩えて表している。そこには、〈駱駝〉が〈獅子〉になり、そして最終的には〈小児〉になるという道筋が示されている。

〈駱駝〉は忍耐・従順・諦念・畏敬の象徴で、「汝なすべし」と命ずる巨大な〈龍〉に従っている。それがある時、「われは欲す」を叫ぶ〈獅子〉に変身して〈龍〉を倒す。〈獅子〉はこれによって自由を獲得し、自分という領域を確保する。その後に、〈獅子〉は〈小児〉に変身する。〈小児〉とは純粋・無垢・遊戯・自発性・創造性の象徴であり「然り(その通り・あるがまま)」という聖なる言葉を発する。

泉谷さんの精神療法を専門とするクリニックに相談にやって来るクライアントは、例外なく「駱駝に疲れてしまって....」とか、「獅子になってはみたけど、やっぱり間違っていたんじゃないか」と思っている状態。「獅子に成ってみたけれど...」という人たちは、「攻撃的」「衝動的」「問題行動が頻発」と評価され周りから持て余されていることが少なくない。泉谷さんは、それはクライアントが〈駱駝〉にうんざりして「怒り」で自分を確保し始めた大事な時期なのだという。セラピストの中にもこの時期の状態を理解できず、表面的な攻撃性だけを見て、力ずくで〈駱駝〉に戻そうとする治療もよくあるという。

この、「怒り」の感情が大切であることは、また別のところで書かれている。感情には井戸があり、1番上にある感情が「怒り」なのだという。そしてその次に「哀しみ」がある。この下に「喜び」「楽しい」といったポジティブな感情がある。なので、このポジティブな感情というのは、ネガティブな感情が意識に出てこない限り、出られないようになっている。泉谷さんが精神療法やカウンセリングしている中でも、クライアントが変化を始めていくときに、「怒り」が最初に現れる。これが、人間が深いレベルで変化し始めるときの重要な兆候であるという。

また、これは少しスピリチュアルな話になるので、若干毛色の違う話になるのだが、興味深かったので少し書く。

「パワーかフォースか」の著者、デヴィッド・R・ホーキンズ博士が、著書で「17の意識レベル」について書いている。この意識レベルに於いて、「恥」や「罪悪感」などの感情が1番低いレベルに相当する。そしてその上に「怒り」や「恐怖」がある。これは、「恥」や「罪悪感」よりも「怒り」「恐怖」の方がエネルギーがある状態であることを示している。

この考え方も、ツァラトゥストラの三様の変化と基本的には一緒であると思う。両者とも、「怒り」を感じることを肯定し、変化の転換点であることを示している。人間が本当に無気力である時、そこに「怒り」はない。「怒り」は、確かにその人が生きているという証明であり、身体と心からのメッセージである。

あるがままを受け入れる

「怒り」という感情に対して、恐らく否定的に感じている人は多いだろう。しかし、「怒り」は決して悪いものではない。問題はそれをどのように表現するかということだ。感情に任せて罵詈雑言を浴びせるのか、一旦1呼吸を置いて、理性的に相手に語りかけるのか。大切なのは、自分の感情を押し殺さないことだ。押し殺す必要などないのだ。押し殺そうとしたその時、何が自分を止めたのか突き止めるのだ。そこに社会的規範や、「普通」といった枠組みはないだろうか。この世界に「普通」なんていうものはない。そんなもの、時代によって揺蕩う曖昧なものだ。大事なのは、自分が何故怒りを感じたかということだ。「こんなことを考えるなんて失礼だ」とか「私の考えは社会的におかしい」とか、そうゆうことを考えていないだろうか。

マイノリティであること

 マイノリティであることについて、泉谷さんは、「みにくいアヒルの子」、「ガラスの動物園」のユニコーンの角を引用している。ご興味がある方は是非、彼の著書を読んで欲しい。ちなみにこの話があるのは「「普通」がいいという病」である。特に「ガラスの動物園」の話はかなり示唆的に富んでいて、心の琴線に触れるものなのでオススメする。

なかでも私が印象深かった茨木のり子さんの「おんなのことば」「汲む」より引用された詩だ。

大人になってもどきまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶   醜く赤くなる
失語症   なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇   柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている   きっと・・・・・・

泉谷さんは、著書の中で茨木のり子さんの詩を何度も引用されている。茨木さんは、泉谷さんの言葉を借りるなら詩人だ。正常と異常の境界線上にあるような視点や言葉が、今の時代ではほとんど失われてしまっている。けれども、その失われてしまった貴重な言葉でつくられているのが「詩」であり、「正常」と「異常」の両方を股にかけて、往ったり来たりしながら「異常」の世界の言葉を「正常」の方へ持ってきて伝えようとしているのが「詩」である。このような境界線上に生きている人が「詩人」なのだと泉谷さんは書いている。「異常」に呑み込まれず、「正常」を保ちながら境界線上を生きるのは、苦痛が伴うことだろう。しかしながら、生きていくことは苦痛を伴うものなのだ。そうゆう認識で世界を見てみると、案外この世界には境界線上に生きる人間が居るということに気付かされる。彼らは、「異常」の彼岸から一掬いの言葉をかき集め、必死の思いで私達に語りかけてくれている。私はこの認識を知ったことで、世界が反転し、きらきらと輝き出したような気がした。世界は、捨てたもんではないじゃないか。世界には、私と同じように世界中のマジョリティと闘っている同士が居るのだ。彼らは「私は詩人だ」などと声高に言わない。彼らは自分の世界観で、自分の言葉で、自分の宇宙を語る。私はその宇宙の片鱗に触れ、私は私で居ようと思ったのだ。この狂った世界で、自分で居ることは並大抵ではない。しかし、私はもう知っている。私は素晴らしいのだと。私には沢山の同士が居るのだと。だから、私は怒るべき時にきちんと怒る人間でありたいのだ。そして、「異常」と「正常」の境界線上を歩く、詩人でありたいのだ。




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