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神はそこに居るのか

 クエンティン・タランティーノの「パルプフィクション」という作品がある。

 映画好きなら知っている人も多いだろう。「サデーナイトフィーバー」で一世を風靡したジョン·トラボルタと、ユマ·サーマンが出ている。音楽的にも冴えたオープニングで始まり、2人の強盗のカップルが銃を出しながらカフェに登場し、幕が開ける。

 正直、映画全体として見ると、面白かったか?と聞かれると微妙なところがある。私が、今回書きたいのは、この映画についてではなく、この映画の印象深かったワンシーンについてである。

 シーンの詳細については、割愛するが、私的にこの映画のハイライトである。

 ジュールスが神の存在を感じたシーンだ。銃を何発も撃たれるが、ジュールスには一発も当たらず、その時彼は神の存在を感じ、殺し屋から足を洗うことを決意するシーン。

 果たして、そこに神は本当に居たのだろうか。しかし、ジュールスにとって、「本当に神が居たか」はさして重要な問題ではなかった。大事なのは、自分が「そこに神の存在を感じたのか」が大事なのだと言ったのだ。

 これは、ユクスキュルの環世界だ。この世界は、その生物にとって意味のあることで構成されている。それは、生物という大きな括りだけでなく、一個人としても同じ意味足りうる。

 他の人間がどう感じようと、自分が何をどう感じているか、ということに意味があり、世界を構成しているのだ。だとしたら、他人がどう感じているか、が自分にとって、全く意味を成さないことがよく分かる。

 映画を見た時、考察動画や、他人の感想に汚されまくった手垢まみれの感想文を放棄せよ。その何気ない風景のなかに神を見るかどうかは自分次第だ。

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