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ここぞという時が分かるようになりたくて

 私は「機を読む」とか「待てば海路の日和あり」とか、「果報は寝て待て」などの、タイミングとやら、にとてつもなく興味がある。これは、運とはまた違うジャンルだ。運についてもとてつもなく興味があるが、今回は「機を読む」ことについて考えていることを書く。

 私の好きな「パイレーツオブカリビアン」という映画の中で、ジョニー·デップ演じるジャック·スパロウが主演のウィルに「ここぞという時を待て」と言うシーンがある。私はこうゆう、機を読むシーン(ここは機を読むシーンではなく機を読むことを諭すシーン)が好きだ。何だか機とやらはよく分からないけれど、この世界に「タイミング」「ここぞという瞬間」があることは確からしい。それは、長年この地球に生きてたら何となくの体感として皆理解しているだろう。それが何なのかは分からない。流れが存在し、それに乗る絶妙なタイミングがあるようなのだ。

 私はその「ここぞという時」が分かるようになりたくて、「機を読む」ことについて長年考えてきた(ただ考えていた)その私が何となく「こうじゃないか?」と思う「機の読み方」を何となく書く。

そもそもの話なのだが、「機を読む」ためには経験してその感覚を掴んでいくしかない。言葉では分からないし、理解できない。兎に角インスピレーションが降りてきたらそれに従ってみる。を兎に角繰り返す。そしてその成功体験を繰り返していく。これに尽きる。身も蓋もない。
多少のハードルあっても飛び込んでみる。何か買う用事だったら思ってたより高い金額の場合が多かったり、場所だったら二の足踏むような面倒な場所だったりとか、ちょっと怯むような事象が起きる。それに対してえいやって飛び込む勇気を持つ。それで成功体験を繰り返していくと、宇宙とか自分を信頼できるようになっていく。兎に角頭でただ考えるだけじゃダメで。アウトプットして、実践していくことがちょう重要。これは私の体感として。うじうじ悩んでるくらいならやってみる。結局のところ、動くことでしか私たちは分からないし、納得しないんだよね。そうゆう大いなるものと繋がる練習をすると、直感も磨かれていくから、これは買っといた方がいいやつやな、とかこれは何かヤバそうやな、というのが分かってくる(それが間違ってるパターンもあるかと)ので、ヤバいものを自分から遠ざけることもできるし、自分の大切なことが分かるようにもなってくる。兎に角パターンがある。でもそれもやらなきゃ分からない。

私が絵を描く時とか、漫画を描く時も色んなパターンがある(こんな私にもパターンあるんすよ)
例えば宮本さんのソロライブが決まった時は、何か記念の絵を描きたいなーと漠然と思う。5周年に因んだGO!というタイトルだったので、走り出すような明るいイメージがいいな、と漠然と思う。そうやってイメージが出来上がってから、ノートに実際に走っている宮本さんのイラストを描く。この時、まず最初は何となくでさらさら描く。走るイメージといってもどの角度からだろう?GO!という言葉から来る前進していく明るいイメージから、やはり正面からがいいなと思い、ネットで走る正面絵を探し、それを見ながら実際に描いていく。
漫画などは、面白そうな事象があるとまずそれに対して心で引っ掛けてある感じ。これは漫画に出来そうだな、という感覚ではなく、ただただその事象に対して「面白いなこれ」と思っている状況。その後、なんかふと「これ何か漫画で描けるかも!」と思いついて描く。漫画は大体下書きなしの一発描き。描きたい内容は一緒なんだけど、どう描いたら伝わるか、などは考える。どう描いたらよりぐっと解像度(私の感じた面白さ)が上がるか?なども考える。
描きたい絵が最初から決まってる場合と、ただたださらさらと描きたい線を描いてる場合がある。それもインスピレーションになるのだろう。

インスピレーションは、頭に直接画像や文字が浮かんでくることもあるし、見ている映画の中に現れることもあるし、小説の中、何気なく見ている風景の中、会話の中の言葉、色んなところに現れる。何でもかんでも「これは、メッセージだ!インスピレーションだ!」となってはいけない。これも慣れだと思うけど、インスピレーションに気づいたら即実行!(できるだけ早く)ってのを繰り返していくと、何となく分かってくると思う。精度も上がっていく気がしてる。これもやはり実践することでしか身についていかない。

雑誌で見つけた時計が何かずっとイメージが離れない。とか同じ場所のイメージがずっと離れない。よく目に付く。とかメッセージの可能性高いんじゃないかな。その度に、自分の中に潜り込んでいき、自分の本当の望みを掬い取っていく。もしかしたら、「私にはこんな望みがあったのか」という新たな発見があるかもしれない。

私はずっと自分に似合う服を探してて、見つけたんだけどちょっと自分には高かった。んで、迷った末に買わなかったことがあった。暫くして行ったら無くなってた。私はめっちゃ後悔した。望んだからお望みの服を用意してくれたのに、私は拒否した。多分だけど、変わるためには少しのハードルがあるんじゃないかな。それって今回は金額だったけど、金額の問題じゃなく、怯むか怯まないかの問題なんだと思う。それを超えて行ける覚悟があるか(いや、そんな大層な金額じゃないんや)
その時に、今度合う素敵な服があったら多少高くても買う!と思った。
だって、もし私が用意する側だったら望むばっかりで拒否しまくる奴はどうだろう。もういいやってならないかな。

暫くして同じ服屋に行った時、良い服があって沢山買ったんだけど、「これは私のために用意してくれた服や」って分かる。何か分からんけど分かる(笑)この感覚もきっと続けた人にしか分からないと思う。何かオカルトちっく怪しい!って思うかもしれないけど。やれば分かる。やらなければずっと分からない。多分この世界は「行動」が鍵を握ってると思う。
頭で考え続けたって答えは出ない。行動あるのみ。


 


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