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序章『最終定理の証明法』

 どうしても解けない証明問題があるから、教えてほしいと頼まれた。
 入学して早々に行われた特進クラス選抜試験で、最後の設問になっていたものだ。相原の話では、六十分あった試験時間のうち少なくとも三十分は費やして、家に帰ったあともずっと考えていたけれど、結局手も足も出なかった、とか。見せてもらった答案だと、厳密に言えばみっつ設けてあった小問のふたつめまでは解けていて、ただ最後の証明問題だけは綺麗に真っ白で。
 あと五分だけ自分で考えたい、と言うから、ルーズリーフに出題を写して渡した。受け取った彼女がぽつりと呟いて曰く、
「池内くん、意外と字ぃ綺麗だよねぇ」
「意外とは」
「いやほら、頭いいひとってぐっちゃぐちゃな字書くじゃん?」
「……それ、頭のよさと相関ある?」
「んー、言われてみたら統計的なことはわかんないや」
 かく言う相原も、綺麗な字を書くだろうに。
 放課後の教室。窓の外は快晴、青い空に桜吹雪。遠くのほうから、運動部のかけ声。時折聞こえてくる、シャープペンの硬い筆記音。
 数式を見つめ、黙って考え込んでいた彼女が、ふと顔を上げる。なにかと思って目を向ければ、にっこり笑って口を開いて、流れるように言ってのける。
「Cuius rei demonstrationem mirabilem sane detexi. Hanc marginis exiguitas non caperet.」
 ……そう来るか。
「私はこの定理について真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる——フェルマーの最終定理だね」
「あは、やっぱり知ってたかぁ」
「まあ。さすがに、ラテン語で諳んじてきたのは相原がはじめてだけど」
 いったん、手元の教科書を閉じる。フェルマーの最終定理を証明するのは高校数学の域を超えるが、この問題については現時点の相原が持っている知識で解けるようにできているはずで。
「どこまで解けた?」
「んーとねぇ」
 こんなかんじー、と返されたルーズリーフに、ざっと目を通す。ひとつめの式変形まではなんとかなっているものの、
「……これさぁ、あんまり進んでないよね?」
「あまり進んではいないね」
「具体的には?」
「あと二段階は式変形しないと解けない」
「だーよねぇー」
 うー、と唸りながら机に突っ伏す、かと思えば目だけで見上げてきて、
「ちなみに池内くんはこれ、一発で式変形できるかんじ?」
「式の変形過程を書かずに解答して、『次からは書かないと減点』って苦言を呈された感じ」
「あっははは、どーなってんの池内くんの思考回路!」
 ころころ、明るく笑う声。こういうのを、「鈴が鳴るよう」と形容するのだろうなと、どうでもいいことを考えた。その一瞬のうちに、彼女の顔から笑みは嘘のように消えていて。
「……はぁ。なんでこんなにダメなんだろ、数学」
「べつに、得手不得手があることはなにもおかしくないと思うけど」
「そう……かなぁ」
「あと、相原の言う『苦手』も『ダメ』も実際は平均点超えてるから」
「そう、なんだけど、ねー?」
「ねー、とは」
 訊き返せば、ふは、と彼女がまた小さく笑う気配。机に伏せたままの身体から、力が抜けていくのが見て取れた。
「なんか、さぁ。いっそ、体育くらいガタガタにできなかったら諦めがついたと思うんだよ。中途半端に平均レベルまではこなせるから、『だったらもっといけるんじゃないの』って思っちゃう」
「平均的な水準でこなせている時点で、『中途半端』とは言わないんじゃ」
「……なるほど?」
「それと。——相原の場合、数学を平均的な水準でこなすのに費やすエネルギーが、ほかのひとより多い気がする」
「……。端的に言うと?」
「数字がそもそも得意じゃない」
 それも、一定以上の深刻さで。すうっと、彼女の双眸が鋭くなる。
「池内くん、それ、諦めろって言ってる?」
「そういうつもりはないけど」
 あきらかに冷たくなった視線。疑われている、と察しはついた。意識して、まっすぐに見つめ返す。
「ここまで努力している自分を、もう少し肯定してもいいんじゃないか、とは思う」
 彼女が、ほんの少し目を丸くした。凍えるようだった瞳が、わずかに、でもたしかに温度を取り戻す。虚をつかれたよう、という言い回しは、こういうときにも使ってよいのだろうか。
「どりょく」
 ぱちぱちと何度か瞬いたあと、「努力」ともう一度口のなかで転がして、きょとんと彼女は首を傾けた。こてん、とか、そういう音がしそうな所作。
「これって、努力、なのかな?」
「なら逆に訊くけど」
 細い手首に巻かれた、デジタル式の腕時計。日付を示す数字の隣には、求められていなくても必ず曜日を記していることを知っている。
「相原のそれを努力と言わないで、なにを努力と呼ぶつもり?」
「あー……それ、は、その」
 さっきとは反対方向に首を傾げて、こちらからは表情が窺えなくなる。ただ、顔が見えなくてもなんとなくわかる。声だけでも、戸惑っているのが伝わってくる。
「……なん、だろね?」
 問いかけのかたちではあったけれど、答えを求められていないことくらいは察せた。彼女が言葉を探して考え込んでいるあいだ、いつのまにか暮れはじめていた夕焼けの空を眺めることにする。彼女がもともと赤みの強い髪色をしているのは認識していたつもりだが、夕日に染まるといっそう鮮やかに赤く見える。ただただ黒い僕の髪では、おそらく起こらない事象だ。
 あ、そっか、と小さな声が聞こえたから、視線を向ける。やわらかく苦笑する少女と、ぱちり、目が合った。
「あたし、努力なんかしたことないって思ってた。なんなら、ちっとも努力してないくせに、こんなにできちゃうのが気持ちわるかった。なんにも努力してない自分が、あんなにがんばってるみんなを追い越しちゃうのが、なんか、申し訳ない、とか」
「ずいぶんとまた歪んだ認識だね」
「うっわバッサリ」
 からころとひとしきり笑った彼女はやがて、はぁ、と大きく息を吐いて。
「そっか。あたしも、がんばってた、んだな」
 穏やかな表情と、声と。ふわりと笑いかけられて、
「ありがと。ぜんぜん気づいてなかった」
 ——いま思考が止まったのは、言葉が出てこなかったのは、なぜだろうか。
「……、べつに」
 たいしたことはしていない、と思う。ふいと視線を逸らした先に、ルーズリーフが置いてあった。そう、もとはと言えば、この証明問題の解説を頼まれていたはずだ。
「それで。もう少し考えたいなら、待つのは構わないけど」
「んー? あー、うん、ギブアップ! 解説頼んでいい?」
「わかった」
 この証明問題を解くのに、僕は三分、彼女は三日。フェルマーの最終定理が完全に証明されるまでに要した歳月は、およそ三百六十年。
 さて、では。僕が抱いたこの謎は、僕自身の手で解き明かすに至るだろうか。まったく、手始めから難題だ、命題の全容すら見えないままで。
 
 
  
 ——この感情を、僕はどう定義すればいい。


文庫版を取り扱っています。続きにご興味をお持ちいただけるかたは、お迎えをご検討くださるとうれしいです。


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