第1幕『流れ星の少年』 #2
8月3日
月齢:21.0
天候:晴
「もういいだろ! どっか行け! 二度と近寄ってくんな!!」
あまりに激しい拒絶に、足が止まる。たちの悪いことに、なんとなくその声に覚えがあったのだ。
数歩戻ってちらりと窺えば、雪みたいな白髪が目に入った。夕方の公園にひとり、うずくまっているのは、きのうの少年に間違いなかった。ほかにも数人の子どもたちがいたのだが、僕が公園に足を踏み入れると蜘蛛の子を散らすように逃げていった。ただひとり、彼だけが、小さく震えてばかりで動こうとしない。
近づいていくと、目についたのは砂場に放り込まれたペンケースにノートに、教材、それからいくつかの書籍。その光景が誰かの悪意であることくらい、想像がついた。
ヘッドフォンを外して、首に引っかける。
「なにやってるの」
冷ややかですらある僕の声にがばっと振り向いた少年は、いまにも泣きそうな顔をしていた。それなのに、彼はすぐさま笑顔を浮かべてみせるのだ。
「あれ! また会ったなー、にーちゃん!」
「どうも。『また』があるとは思ってなかったよ」
ざく、ざく、スニーカーが砂を踏む。軽く空をあおぐと、ふむ、日が傾いてきたとはいえまだまぶしい。羽織っていたパーカーを、とりあえず彼の頭にかぶせる。申し訳程度だがUVカット素材だ、ないよりはマシだろう。ジーンズの左ポケットから伸びるコードがぶらりと揺れて、少し鬱陶しいが仕方ない。
「わ、ちょ、なにすんだよ!?」
「日よけにでも使って」
適当に応じつつ、手近なところからまずノートを拾い上げた。ぱっと払って砂を落とす。次はコピー用紙の束、それから専門書、子ども向けの科学雑誌、ノート、理科の教科書。まったく、本を砂場にぶち込むとは、誰だか知らないがひどいことをしてくれるものだ。ラベルが貼られているのを見るに図書館の本だぞ、これ。
ひとつずつ、手で砂を払っていくと、ちらりと見えたページに「流星散乱」とあった。思わず手が止まる。僕の顔色を、彼がパーカーの下からそろりと窺う気配。
「……あのさ、にーちゃん」
おそるおそる、切り出される。まったく。ほんとうに目ざとい子どもだな。
「きのう言ってた、『りゅーせーさんらん』? 調べてみたんだけど、よくわかんなくって……なあ、『りゅーせーさんらん』ってなに? なんで、ラジオの砂嵐で流れ星が降ったってわかるの?」
──ふいによぎったのは、流れ星に願いをかけたいと言ったときの真剣な目。それから、ラジオのノイズに耳を傾けて、星なんか見えない曇天を見上げて、やけに嬉しそうだったあの姿。
「にーちゃんは、知ってるんだろ?」
目を閉じて、空をあおぐ。はあ、とひとつ息を吐き、視線を地上へ戻した。パーカーを支える白い両手と、日をよけながらもこちらを窺おうとする赤い目と。
……まったく。
「君の見た資料では、どう説明されていた?」
「しりょー」
「調べたもの。本とか、インターネットのページとか」
「あ、うん。えっと……」
ばさばさと砂を払いながら、彼が選び取ったのはA4のコピー用紙。「流れ星をラジオで探す」という、そのものずばりの見出しがついている。いくつかある項目のひとつに「原理」というのがあって、そこの本文のところどころに黄色いマーカーが引いてある。たぶん、わからなかった単語だろう。
──これは、「流星散乱」という現象です。流れ星が降ってくると、その部分の大気がイオンに変化して、イオンの密度が上がります。この部分にラジオの電波がぶつかると跳ね返り、遠い場所まで届くようになるのです。──
……ふむ。わかりやすい資料でよかった。
たしか、イオンと電波は中学校か、遅くとも高校で習う。それから大気は、小学校でも扱うはずだ。密度は……いつ習ったかな。理科じゃなくて算数か。
さて、どうしよう。
とん、とん、と首筋を指で叩いたのは無意識。はあ。意識して、もう一度息を吐く。軽く吸い込んで、
「はじめようか」
講義の時間だ。
「まず『大気』。これは、僕らの住む地球を覆っている、分厚い空気の層」
「あれか、ロケットの『たいきけんとつにゅー』ってやつか」
「そう。その大気に、宇宙から流れ星が降ってくる。このとき、流れ星に触れた大気が、変化するんだ。この、変化してできたものが『イオン』。つまり、流れ星が流れたところには、イオンがたくさんある──言い換えれば、『イオンの密度が高い』状態になる」
厳密な表現からはかけ離れているが、もういい、続行。
「ふむふむ。それから?」
「その、イオンがたくさんある場所に、ラジオ放送の電波が当たる」
「でんぱ」
「ラジオやテレビの音や映像を伝えるのにも使われているもの。携帯電話の電波が強いとか弱いとか言うのもそれ。詳しくは中学や高校で勉強する」
「ふむ。で、跳ね返るのか。それが『りゅーせーさんらん』?」
「そう」
大枠は、こんなところなのだが。彼は見るからに難しそうに眉を寄せて、首をひねっている。まあ、いまので「わかった!」とか言われてもまったく信憑性がないな。
「気になるところは?」
「んーと……なんで『でんぱ』は跳ね返るともっと遠くに飛んでくの? 跳ね返ったら遠くに飛ぶっていうよりか、こう、来たところに戻ってく感じで、『たいきけん』ってやつから出てっちゃいそうだけど」
ぱたぱた、ばたばたと、手でなにか表現しようとしながらのそんな質問。なるほど、そこか。たしかに、来たところに戻っていくパターンもあるのだが、さて。
見本になりそうなものは、とあたりを見渡せば、そうだった、ちょうどよいものが目の前に。砂場の近くに転がっていたボールを拝借し、同じく落ちていた木の板も拾う。ついでに、彼を近くの木陰に追いやった。
はあ、暑い。だいぶ日は落ちてきたけど。
「……え、なに? にーちゃん、砂遊びでもすんの?」
説明しようというのに、このガキ。じとりと視線を返すと、スミマセンデシタ、と少し怯えたような声が飛んでくる。
深く、ため息をひとつ。それから、
「例え話だよ。このボールが『ラジオの電波』だとする。砂場は『大気』に見立てる」
厳密には、砂場を大気とするのは間違って──いや、いい。もう気にするな。
「ラジオを放送しているラジオ局が、僕らの位置。普段なら、僕が、すなわちラジオ局が『電波』を届けられる範囲は」
軽く構えて、ボールを放り投げる。砂場の真ん中あたりにぽすっと落ちたボールを指して、
「だいたい、あのあたりまで。見える?」
「いや見えるけど……にーちゃん、ボール投げるのへただな?」
うるさいな。それに、僕のボール投げの技巧うんぬんは本題じゃない。
「スミマセン、ナンデモナイデス。で? いまのは、流れ星が降ってないときだとこーなる、って話なんだよな?」
「そう。ところが、流れ星によって大気の一部がイオンに変わると」
さて、どうなる?
僕の問いかけに、彼は考えつつ答えていく。
「えっと、……さっきの話のとおりなら、イオンが集まってるところに電波が当たると跳ね返って、もっと遠くに行く、んだよな」
「君は、それが『よくわからない』と言った。だから、いまから実演する」
「じつえん?」
「やってみせる、ってこと」
僕は言いながら、木陰を離れて砂場に踏み込んだ。ボールを回収して、板をそこに置いてから、彼の隣に引き返す。
「あの板が『イオンの集まり』だとしよう。あれに電波が当たるとどうなるか」
さっきと同じように、今度はもう少し真面目に狙って投げる。ボールは板に当たって、跳ね返って──砂場の奥へ、転がっていく。
「あ」
「こういうこと。跳ね返された電波は、発信源、電波を発したところに戻ってくるとは、かぎらないんだ」
実際の理屈とは違う、違うどころかもう完全に別物だが、だいたいこんなところだ。本来跳ね返らないものを跳ね返すと、もともと届くはずの距離より遠くへ行けるようになる、という意味では同じこと。
……で、いいよな。
「これでいい?」
「うん! ありがとな、にーちゃん! ちょっとわかった気がする、にーちゃん頭いいんだなー。プラネタリウムのおにーさんとか向いてるかもなー」
僕の頭がよいのかはさておき、少しでも伝わったのならいいんだけど。それにしても、プラネタリウムの職員か。考えたこともなかった。そんなことをつらつら考えていると、煌々と輝いていた赤い瞳がなにか言いたげに揺れるから、視線だけで先を促す。
「あ、えっと。にーちゃんはこーゆーの、誰から教えてもらったの?」
そこ、か。教わった、というよりも、
「ほとんどは独学だけど」
「どくがく」
「自分で勉強したってこと」
「ふーん? じゃあ、こーゆー、星のこととか勉強したいなーって思ったのはなんで? きっかけとかなんかないの?」
「それは」
「それは?」
ちらりと目をやると、彼はまっすぐにこちらを見ていた。満天の星を溶かし込んだような、きらきらした瞳。ぎっと奥歯を噛みしめる。
「……父、が」
ようやく絞り出した声は、情けなくかすれていた。聞き取れなかったのか、少年は首を傾げる。
「父親が。星とか、好きで」
「へー、そっか。じゃあ、いまでもおとーさんに聞いたりすんの?」
「いや」
即答。当然、彼は不思議そうな顔をした。首の傾く角度が、こてんと深まる。ずり落ちかけたパーカーを、彼は慌てて引っ掴む。
「なんで?」
「いないから」
「──え」
僕を見る双眸が、はっきりと揺らいだ。ふいと見上げた空は、夕焼けを通り越して夜の色に染まりはじめている。星はない。平坦な声は、まるで自分のものじゃないみたいだった。
「帰ってこないんだ。何年も前に、『旅に出る』とか言って、それきり。連絡もないし」
「そう……なんだ」
沈黙。数秒ののち、
「あ、そーだ!」
取り繕ったような元気さは、彼なりの気遣いなのだろう。そのくらいは、僕でもわかった。僕だって、そんなこともわからないほどの冷血ではなかった。せめて声音くらいはやわらかく心がけて、聞き返す。
「なに?」
「そういえばなんだけど、にーちゃん、名前なんていうんだ?」
「え」
──このタイミングで、それを訊かれるとは思わなかった。あまりに不意打ちが重なるから、言葉に詰まる。
ええ、と。数秒考えてから、
「名前を尋ねるときは、先に自分から名乗るのが礼儀」
「あ、そっか。オレはコウっていうんだ。色鉛筆で、赤のとなりにある紅色の、コウ。にーちゃんは?」
「なんだと思う?」
さらっと返す。質問に質問で返すのは、ずるいだろうか。案の定、コウと名乗った少年は目を丸くした。
「へ?」
「予想があたったら、教える」
「えええ、なんだよそれ。正解するまで教えないって、よーするに教えてもらえないんじゃん」
あからさまに不服そうに、唇をとがらせる彼。けれど、すぐにころりと表情を変えた。
「んー、まいっか! 考えとく! そのかわり、にーちゃんにも宿題な!」
「……なにを」
「『なんで流れ星に願いを唱えると叶うのか』。にーちゃん、知ってる?」
記憶をたどって、数秒。引っかかる知識はなかった。いわゆる科学は守備範囲だけど、人文科学は専門外だ。
僕の表情で察したらしい、にやりと少年は笑う。……こいつ。
「そーゆーわけで。オレはにーちゃんの名前考えとくから、にーちゃんはオレの質問の答え調べといて!」
ふわっと、翻った白い髪。パーカーを僕の手に持たせ、荷物を詰めたリュックを担ぎ。その素早さといったら、つむじ風のようだった。彼はあっというまに公園の出口まで駆けていって、くるりと振り向いて、大きく手を振って。
「パーカー、貸してくれてありがとな! すげー助かった! そんじゃまたなー、にーちゃん!」
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