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『イルカとあおぞら』#7

3月1日 月曜日
 
 
 わたし、忘れたい。忘れられたい、な。
 忘れてほしい。だから、こんなことは。
 
 書き残さないほうが、よかったのかな。
 
 
 
 中学校の担任から、連絡があった。会って話がしたい、って。
 
 
 ほんとは、行きたくなんかなかった。けど、呼ばれてしまったので、しょうがない。橙子さんか湊にも来てほしかったけど、そうもいかなくて。
 放課後、夕焼け色の教室に、先生と、わたしと。話って、なんだろ、と思ったら。
「卒業式のことで、確認があって」
 そつぎょうしき。一瞬、うまく漢字にできなかった。そっか、卒業式の時期、か。でも、それが、なんだっていうんだろう。
「雛井さん。卒業式も、出るつもりはない?」
「ない、です」
 頼りない自分の声が、すごく嫌だった。まだ迷ってる、みたいに受け取られそうで。だけど、わたしの気持ちは、とっくに決まっている。
「もう、ここに来るつもり、ないです。だから」
 ぜんぜん着慣れてないセーラー服、ほんとに、落ち着かない。うまく結べなかったスカーフごと、胸元のあたりをぐしゃりと握って。吸い込んだ空気が、やけに冷たい。
「わたしのことは、そっとしておいてください」
 先生、どんな反応してたんだろ。わからないけど、もうどうでもよかった。足元の通学鞄を取って、立ち上がる。教室の出口で呼び止められて、しかたなく足を止める。卒業証書と記念品は、ご自宅へ郵送する、と言われた。わかりました、とだけ答えて、今度こそ教室を出た。
 あとはもう、振り返る理由、なかった。
 さようなら、と廊下で声をかけてきたの、知らない先生だった。小さな会釈だけで通りすぎる。ほとんどうつむいていたから、無視した、みたいに見えたかもしれない。けど、いまさら、どうだっていい。とにかく、早くこの場を去りたい。
 昇降口、こんなに遠かったっけ。
 脱ぎ捨てた自分の上履きを拾って、鞄に突っ込む。からっぽになった下駄箱に背を向けたら、指定品の靴に履き替える。この靴、すごく嫌い。ぜんぜん足に合わなくて、歩くのがつらいから。
 決めた。この靴を履くのも、この制服を着るのも、きょうで最後にする。
 
 わたしが、ここにいたことなんか。誰も覚えてなくていい。
 忘れて、ほしい。
 
 
 
 
 
 学校を出て、なんとなく、ふらりと。
 足が向いた先は、なんでだったんだろ、おうちの方角じゃなくて。
 
「いらっしゃい」
「あ、こんにちはー……っと」
 工房を訪ねてみたら、ユウさんの声と一緒に、もうひとり、よく知っているひとの声が聞こえた。つま先のあたりに落としてた視線を、そろりと上げる。ミルクティーみたいに淡い色の髪が、まっさきに目を惹いた。
 驚いた。湊がここにいるなんて、思ってなかったから。
「るり。早かったね」
「ほんとだ、るりちゃんだ。どしたの」
「あ、えと……」
 右肩の通学鞄、持ち手のところを、ぎゅっと握る。材料、持ってくればよかったな。必要のないものは、学校に持ち込まないこと、みたいな校則も、あったとは思うけど。
「なんか、ガラス、触りたくなって。ロッドとか、なにも持ってない、けど……」
「ん、わかった。いくつかロッド出すから、ここで待ってて」
「あ。……あり、がと」
 いったん、靴を脱いで、揃えておいて。こっちー、って湊が手招いてくれた先には、小さな木製のスツールがあった。
 ……こんなの、あったんだ。知らなかった。
「この椅子ね、荷物に埋もれてたのをさっき発掘したの」
「あ。そういう」
 なんか、似たような感じで埋もれてるもの、ほかにもありそうだ。
 湊は作業台の椅子をわたしに譲ると、近くにスツールを置いて座り直す。通学鞄、邪魔だな。適当に置いちゃってよければ、って、湊が鞄を預かってくれた。
「て、いうか、なんでここに」
「ああ、なんとなく懐かしくなっちゃって。バイトの帰りに、ちょっと寄ってみた」
「……バイト先、このあたりだっけ?」
「うん、すぐ隣のガラス雑貨屋さん」
「あ。そう、だったんだ」
「そうなんです」
 そっか。駅前の雑貨屋さんでバイトしてる、って話は、たしか、前に聞いたことがあったけど。言われてみたら、隣のお店、まさしく駅前の雑貨屋さんだ。
「るりのこと、学校まで迎えにいくつもりでいたんだけどね。のんびりしすぎたー」
 言いつつ、大きめの白いパーカーを差し出してきたから、両腕で抱きとめるようにして受け取る。なんで、って、思った矢先。
「その制服、あんまり好きじゃなかったよね? これでよければ着ちゃっていいよ」
 ああ、覚えててくれたんだ。そういうことなら。
「借りる。ありがと」
「はーい、どうぞ遠慮なくー」
 セーラー服の上に、だぼっと羽織る。袖、かなり余る。指先まで隠れるの、なんか、ほっとするんだけど、このままだと作業がしづらいな。湊の手も借りながら、袖口のところを二重に折り返しておく。ぐしゃぐしゃのスカーフも隠してしまいたいから、ジッパーを胸元あたりまで閉めて、と。こんなかんじ、かな。
 自分じゃないひとの匂いがする。なんでだろ、なんとなく落ち着く匂い。
「——あれ。るりちゃんが湊のかっこしてる」
「あはは、ちょっといろいろありまして?」
「そっか。なんか似合うね、そのパーカー」
「そう……なのかな」
「うん。なんだろ、そっちのほうが、るりちゃんっぽい」
 さっきの制服、息苦しそうだったし。って、さらりと核心をついてくるものだから、返す言葉がなかった。湊も苦笑するばかりで、なにも言えないみたいだった。
「で、これ、ロッド。てきとーに、るりちゃんが好きそうなの持ってきてみた」
 差し出された箱を両手で受け取って、膝の上で抱える。覗き込んでみれば、中身は青系統のガラスロッドたち。
「こないだ、この青いのとか、気になってるのかな、ってふうに見えてたんだけど。るりちゃんの好みって、このへんの色であってる?」
 食い入るように、見つめてしまった。青くて、透明で、きらきらのロッドばかりだ。すごい、なんでわかるんだろ。
「すき。使いたい」
「ん、いいよ、使って。なんなら持って帰っていいよ」
 やった。どういうの、つくろうかな。構想をなんとなく広げつつ、ゴーグルつけて。アームカバーはするけど、手袋はしたくないな。細かい作業になりそう、手先の感覚をだいじにしたい。あ、徐冷用の電気炉。忘れずに、あっためておく。
 バーナーの使いかたは、基本的に、おうちのと一緒。ちょっとだけ火力が高いから、普段より一拍だけ手早く。ガラスロッドが、炎のなかで熔けていく。この青だったら、波のかけら、みたいなイメージにしたいな。
「そういえば、こないだから気になってたんですけど。ユウさんって、るりに対してやたらと大盤振る舞いしません?」
「そうかな。ボロシリケイトとか、俺、ほんと使わないから。もったいないだけだし」
「それは知ってますけど、にしても。貴重な材料も多いですよね、見た感じ。いまの青いロッドなんか、だいぶ前にメーカー廃盤になったはずじゃ」
 手元、ちょっと狂うところだった。これ、この青色、なんとかして自分でも探して買おうと思ってたのに。
「もう買えない、の?」
「メーカーさんの公式からは買えないね、その青。けっこう前の話だから、市場での流通もさすがに期待できないかも」
「う」
「そんな顔しなくても。ここにあるロッドなら、ぜんぶ持ってっていいよ」
「へえー」
「……なに」
「なんでもないでーす。というか、この桜色も廃盤ですよね。原材料がどうの、って」
「湊、ほんとによく覚えてるよね、そういうの」
「あはは。まあ、カタログとか見るの好きだったので。なんとなくでいいなら、まだひととおりは把握してるかな、そのへん」
「あー、そっか。空き時間とか、カタログ広げて眺めてたっけ」
 ふたりの会話を聞きながら、くるくる、ロッドを回して。球体、綺麗につくれた。よかった。いったんバーナーから引き上げたら、かたちを変えていく。このままだと工具のあとが残っちゃうから、また少し熔かして、整えて。
「あ。そうだ、カタログで思い出した」
「ん、なんですかー?」
「るりちゃん、徐冷点とか膨張係数とかそのへん、いちいち確かめなくてもわかる、って言うんだけど」
「ああ、そうですね」
 ほんの一瞬だけど、手が止まってしまった。その話題が、ここで出る、ってことは。ユウさん、まだ、どっか疑ってるのかな。だとしても、わたし、わかるものはわかる、としか言えない。どうしよ、とは思っても、言葉を探しながらだと、ぜんぜん成形に集中できなくて。ここはもう、湊に任せよう、って割りきることにした。
 極論、信じてもらえなくても、べつに。喉のあたり、なにか刺さったような感覚。無理やり、飲み込む。
「僕も、最初のうちは、調べてから温度設定しようね、って伝えてました。とにかく、危ない目に遭ってほしくなくて。ユウさんから見たら危なっかしいだろうなー、っていうのも、すごくよくわかります」
 だけど、って。声も口調もやわらかなままで、湊はきっぱりと流れを覆した。
「るり、ほんとに、なんにも間違えないんです。ひととおり手順覚えてからは、徐冷のミスで割ったガラスって一個もないんじゃないかな」
「え。……それ、すごいね」
「うん、なので、るりにとってのガラスって、そういうものなんだなー、と」
 教室のみんなには真似させちゃだめですよー、なんて、湊が軽やかに笑う。それで、ユウさんもちょっと笑ってくれた。そういうことなら、って。
 胸元でぐるぐるしてた暗い色が、ふわっと溶けて、消えていく。
「で、先生がそらした話を戻すんですが。なにがそんなに気に入ってるんですか?」
 まだ、手元から目を離すわけにはいかない、んだけど。視界の端だけでもわかった、ユウさんの目がふらりと泳いだ。湊が軽く身を乗り出して、覗き込むようにして。
「はーい、視線逃がさないのー」
「……こうなったときの湊、手強いよね」
「あははー、お褒めにあずかり光栄でーす。それで?」
 うん、わかる。湊って、いったんこうなったら、納得のいく返事を得られるまでは引き下がってくれない。それでもしばらく退路を探っていたようだったユウさんは、やがて観念したように息を吐くと、ぽつり。
「もったいないな、って」
「ふむ」
「なんか、もう。最初に見せてもらったダイクロの時点で、すごいな、って思って」
「あー、綺麗ですよね、あれ。まだ納得してない、って本人は言うんですけど」
「……なるほど。るりちゃん、とことん自分の理想を追ってるんだ」
 こころのなかで、あれ、と首を傾げてしまった。自分の理想を追わないで、なにを追えばいいんだろ。
 さて、ピンセット。さっき、このへんに置いたはず。モチーフ部分をピンセットでつまんで、慎重に引っ張っていって、ガラスロッドから外す。全体を整えたら、成形おしまい、次は仮徐冷。
 バーナーの温度を、ちょっとずつ下げていく。ここで焦ると、割れたり、歪んだり、すごく切ないことになる。かといって、のんびりしすぎてると、せっかくのかたちが変わっちゃう。
 ほんと迷わないよね、って、いつかも聞いたつぶやき。そのあとで、
「単純に、技術もすごいんだけど。まず、発想からして、俺にはないやつだったし。アイデアに追いつかせたくて技術を上げてる、って順番なのかな、見た感じ」
 ぽつぽつ、言葉を選びながら話すユウさんに、湊が穏やかな相槌を返し続けている。やっぱり、よく見てるんだな、先生なんだな、と思う。いまのわたしにはつくれない、って判断で寝かせてるデザイン画だけで、スケッチブック一冊はゆうに越す。
 とはいえ、ユウさんだって、わたしにはない技術とか発想、たくさん持ってるのに。
「るりちゃんの表現、どこまで行けるんだろ、って、勝手に興味があって。だから、材料がないとか、なんか、そんなことでこの子のめざしてる表現が止まっちゃうの、つまんないな、惜しいな、もったいないな、と」
「ふむふむ」
 つくった作品を、あっためておいた電気炉に入れたら、温度を設定し直す。いま、ガラスの温度は徐冷点より高いはずで、ここから五十度下げるのに一時間かけたい。とすると、えっと。ぐるぐる、考えながら電気炉の設定をいじっていたら、湊の声がふっと耳に届いた。
「ようするに、惹かれちゃった?」
「惹かれちゃったね、あれは」
 ……その言い回しは、いくらなんでも、予想してなかったな。ユウさんがあっさり肯定するとも思わなかったから、考えてたこと、どっかに飛んでっちゃった。えーと、だから。一時間かけて、五十度下げるには。
 当然、ふたりはわたしの内心など知るはずもなく。
「あはは、すっごく同感です。るりのつくる青色、なんか刺さるんですよね」
「そうだね。目を奪うって、こういうことなんだな、とか思う」
 なんか、落ち着かないな。そこまで言われるほどのこと、わたし、してない。
 作品を切り離したあとのロッドを、無意識に、ぎゅっと握りしめてしまっていた。はっと気づいて、すぐに指先の力を緩める。うっかり折ったりしたら危ないし、この長さならまだ使えるから。ロッドの入った箱に、そろり、戻しておく。
 わたしがゴーグルとかアームカバーを外すのを待って、湊がわたしの名前を呼んだ。なんだろ、振り向いてみれば、鮮やかな翠緑の目がこちらを見つめていた。
「るりって、なんでここまで青にこだわるの?」
「え、……っと」
 わたしが、青色にこだわる理由。たいした話じゃないし、隠すようなことでもない。べつに、答えることはできる、けれど。
「わたし、湊に話したこと、なかったっけ」
「ないんじゃないかな? 一回でも聞いたことあるなら、覚えてると思うんだよね」
 そっか、と思う。そういえば、そうかも。なんか、勝手に、話した気になってた。
 使わなかったガラスロッドが、箱のなかに残ってる。透き通った、きらきらの青色。ひとつ取り上げて、ほのかに色づいてきた陽光にかざしてみる。やっぱり、わたし、この色がすきだな。
 本来、この手が届かないはずのもの。だからこそ、手を伸ばさずにはいられない。
「青って、きっと、ひとの手には掴めない色だから。掴みたいの。それだけ」
「……掴めない色」
「うん。あ、ラピスラズリとかの鉱物は、手のひらに乗っけられる青、かも、だけど」
 たとえば、青いバラを咲かせるのは不可能だとされていたこと。そこから転じて、奇跡の象徴、と言われていること。いまでは当然のように使われてるLEDだって、光の三原色のうち、いちばん開発が難しかったのは青だった。ラピスラズリも、青い画材にできることで有名だけど、絵の具のなかでもすごく貴重な色だった、とか。
 もっと単純なところだと、
「青い空も、青い海も、ほんとは青くない。どっちも透明」
 青色に見える海の水を手で掬っても、手のなかに残るのは、ただの無色透明な水。青以外の可視光線が海水に吸収されてしまうせいで、海の底からは青い光だけが反射してくる。それで、海が青く見える、ってだけ。海そのものに、色はない。
 それと、氷河とかも。綺麗な青に見える氷もあるけど、これも、青く見える理由はだいたい海と一緒だ。氷だって、海と同じで、水だから。氷のなかで反射していくと、青以外の光は残らなくなる。だから、色のないはずの氷が、青色に見える。
 おんなじように、空も青く見えるけど、空そのものに色はない。飛行機に乗っても、スカイダイビングしても、青色に包んでもらえるわけじゃない。空が青く見えるのは、光の散乱でしかないから。海や氷とかと原理は違うけど、結局、どれもほんとに青いわけではない、という点では同じだ。
「青って、わたしたちの手が届かない色なんだな、って、ずっと思ってて。だから、掴みたいな、ふれてみたいな、って。それで、追いかけてる」
 理由なんて、それだけ。
 手のなかで転がしていたロッドをそっと箱に戻してから、振り返る。ふたりとも、わたしを見つめるばかりで、なにも言ってこない。なんでだろ、よくわからなくて、首を傾げてしまう。
「わたし、なんか変なこと言った、かな」
「あ、ごめんね、そういうわけじゃなくって。納得だなー、って」
「うん、すごいね。ほんとに一途なんだ」
 ユウさんのやわらかい声に、わたしはますます首をひねる一方だ。わかんないな、と思っちゃって。
「まぼろしに触れたい、って言ってるようなものなんだけどね。でも、るりちゃんはほんとに、空とか海から青を掴んで取り出してみせるんだもんね。これだけ鮮やかに、ひとの目を惹くわけだ。納得」
「う、……そんな、たいした話、じゃ」
「そう? たいした話だと思うよ、俺は」
「ですねー。ありがとね、だいじな話聞かせてくれて」
 なん、だろ。落ち着かない。借りているパーカーの襟元を、ぐしゃっと握りしめる。
 ——ほんとに、こんなの。たいした話じゃ、ないのにな。
 
 
 またね、って見送られて、夕暮れ色の帰り道。ふたりで、ゆっくり歩いていく。
 空、すごく綺麗だ。日が沈んだ直後の、淡くてあたたかな色合いのグラデーション。マジックアワーだね、って湊が言ってた。日没後とか、日の出の直前、空がほのかに明るい時間帯のことを、写真家さんたちはそう呼ぶんだって。魔法みたいな色をした空が撮れるから。
 こういう色、つくってみるのも楽しいかも。青いロッド、いくつかもらってくればよかった、かな。
 ふと気づけば、湊の姿が見当たらない。さっきまで、すぐ隣にいたはず、だけれど。足を止めて、振り返ってみる。湊は、数歩後ろから、わたしの足元をじっと見ていた。それで、なにか確信したようで、おもむろに尋ねてくる。
「るり、靴ずれしてるよね? さっきから歩きづらそう」
 ちょっと、うろたえてしまった。なんで、こんなことまで見抜けちゃうんだろな。
 ほんとは、工房を出るとき、靴を履き直した時点で、嫌な感じはしていて。でも、このくらいの距離なら、我慢できる、と思って。いったん気づかれてしまった以上、なんでもない、って言い張っても、湊には通用しない。鞄の肩紐、ぎゅっと握って、うつむく。
「靴ずれ、なのか、わかんないけど……小指とか、痛くて」
「うん、そっか。その靴、合わないから履きたくないって言ってたもんね」
 休憩しよっか、って言われて、歩道の柵に座る。湊は、わたしの正面で膝をついた。なんにも躊躇しないものだから、わたしのほうが無意味に怯んでしまった。そんなのおかまいなしに、湊はわたしが履いているスニーカーの靴紐を手際よくほどいていく。ここまでゆるくなっちゃうと、ぱかぱかして歩けないけど。どうするつもりだろ。
 ひととおり靴紐を緩めて、ざっくり結び直したら、数秒ほど考え込むような気配。そのあと、わたしの顔を見上げてきて、
「るりの鞄って、とくに壊れものとか入ってないよね?」
「えと、……きょうは、ない、はずだけど」
「よし、まとめちゃおう。鞄貸してー」
 湊が通学に使ってるリュック、わりと大きめなのは知ってたけど。わたしの通学鞄がすっぽり入っちゃうとは、さすがに思ってなかった。いまひとつ理解が追いついてこないまま、てきぱきと荷物をまとめていく手をぼんやり見ていた。そしたら、はい、ってリュックを差し出される。
「これ持てる? 教材だいぶ多いから、重いかもしれないんだけど」
「このくらい、なら、持てる、……と思う」
「おっけー。じゃあ、ちょっと家まで持ってて。担いじゃっていいからね」
「え。……あの、もしかして」
 このひと、わたしのこと、背負って帰る気なのかな。まだ口には出してないのに、にこりと笑顔が返ってくる。
「うん、るりの予想どおりです」
 とりあえず乗っちゃってー、って。さらっと言われてしまったから、断れなかった。そろり、背中に体重を預けてみる。せーの、でふわりと足が浮いて、慌ててぎゅっと抱きついた。しっかり掴まっててね、って、湊が笑う。
「あ、の。重く、ないの?」
「ぜんぜん。なんなら軽すぎて心配なんだけど、ちゃんとお昼ごはん食べられてる?」
「う」
 お昼ごはん、なるべく抜かないようにしてるつもり、なのにな。
 て、いうか。周囲の目が気になる、落ち着かない、そわそわする。べつに見られてなんかなくて、わたしの気にしすぎなのかもしれない、けど、でも。湊の肩に、額を押しつける。借りてるパーカーと、同じ匂いがする。甘めの柑橘系、みたいな。
「ふふ、照れてる?」
「そう、いうの、言わなくていい、からっ」
「その反応がもうかわいいー」
「うるさい」
「あはは、怒られちゃった」
 ばか、湊のばか。そういう、余計なこと、言わないでいいのに。頬とか、耳とか、すっごく熱い。顔、しばらく上げられそうにない。
 こんな調子で、おうちまで、心臓、もつのかな、って。わりと本気で、そう思った。
 
 
 
 やっぱり、こんなの、書き残さなければよかったな。
 匂いとか、体温とか。しばらく、忘れられなさそう。



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