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第1幕『流れ星の少年』 #4

8月12日
月齢:0.7(新月)
天候:晴

 借りてきた図書の返却期限だった。
 あれこれと手続きを優先していた関係で図書館の開館時間内には間に合わなかったけれど、行くだけ行ってみると入口のところに返却ポストが設けてあった。なるほど、ありがたい。がたん、とポストが本を飲み込んだのを確かめて踵を返そうとしたとき、ふと目にとまるものがあった。
 正面玄関のベンチにうずくまっている、誰か。それが誰なのかなんて、見えた瞬間からわかっていた。
「……なにやってるの」
 こつん、硬い革靴の音に、こくりと白い頭が揺れる。いつからいたのか知らないが、眠っていたらしい。ゆっくりと持ち上げられたまぶたの下、赤い双眸が、僕を捉えると嬉しそうに笑う。
「──あ。にーちゃん、来たなー。待ってた」
「こんな時間までなにやってるの」
 彼の隣に腰かけて、あらためて問い直す。返ってきた言葉はといえば、
「にーちゃん。オレ、もうにーちゃんに会えなくなっちゃった」
 その意味がわからず、僕はしばし沈黙する。ようやくひねり出した問いはこんなのだ。
「『ふらふら出歩くな』って怒られた、とか?」
「ううん。オレ、引っ越すの」
 そう、か。
「残念だな」
「そーだなー」
 やけに神妙な顔をして、少年は頷く。年齢に不釣り合いなはずのその表情が、不思議と似合っていた。
「にーちゃんとは、もっと喋ってみたかったんだけどなー。もっといろいろ教えてほしかったんだけど、きょうで最後になっちゃった」
 きょうで、最後。そう認識して、真っ先に口をついて出た言葉があった。
「──ごめん」
 きょとんとした目が、こちらを見つめる。……思い当たらないのだろうか。彼はぐるぐると考え込むように視線を彷徨わせる。
「心配してくれたのに、ひどいこと言った」
「……。もしかして、こないだのこと気にしてたのか? にーちゃん、リチギだなー」
「律儀って言葉の意味、わかってる?」
「わかんない! でも使いどころは間違ってないだろー?」
 まあたしかに、間違ってはいないか。
「んー、そっか。べつにいいのに。にーちゃん、つらかったんだろ? それならしょーがないじゃん。オレはへーきだぞ?」
「そう、か」
「そーそー。……あ、そういえば、流れ星また聞きたいなー」
 そんなことだろうと思っていたから、きょうはヘッドフォンではなくイヤフォンを持ってきた。片耳だけ外して差し出せば、彼は嬉しそうに受け取る。
「あ、そうだ、にーちゃんに聞きたかったこと思い出した! なんか、ここんとこ何日か、流れ星多くない?」
「ああ」
 言われてみれば、そうか、それがあった。八月十二日、流れ星、といえば、
「流星群だ」
「りゅーせーぐん」
「流れ星の群れ、と書いて、『流星群』。べつの呼び方だと『流星雨』、流れ星の雨なんて言い回しもあるよ。いまの時期はペルセウス座流星群だね」
「へえー! 星の雨かー、どーりで流れ星いっぱい聞こえるわけだなー」
 そんな表現も知ってるのか。
「とくに今年は、流星群のピークが今夜から明日にかけて訪れるんだけど、新月のタイミングと重なったからね。月の光に邪魔されないぶん、流れ星はいつも以上に見やすくなるよ」
「なるほど、じゃああしたも探してみよっかなー。……あ、『いまの時期は』って言い方したってことはさ、もしかして毎年見られるの? りゅーせーぐん」
「そう。月明かりの影響なんかで、見やすい、見づらいとかいう違いはあるけど、ペルセウス座流星群なら、極大──活動のピークを迎えるのは毎年八月十二日から十三日あたり、って決まってる」
「おー、夏の楽しみが増えたなー! わかった、覚えとく! ありがとな、にーちゃん!」
「どういたしまして」
「おう! あとは……そーだなー。んー……」
 彼は手を伸ばして、僕の左袖を軽く引く。もしかして、腕時計のことか。
「これでもまだなんかすっきりしないならさー、にーちゃん」
「なに」
 なんとなく察しはついたけど、先を促してみる。じとりとした目線が返ってきた。
「……。にーちゃん、わかっててわざと聞いてるな?」
「どうだろうね。で、なに」
「ん。……やっぱその時計、ちょっと見せてほしいんだけど……だめ?」
 ずるい言い方だという自覚があるのだろう、彼の口調はあきらかに申し訳なさそうな色合いを含んでいた。少しだけ、返事に迷う。数秒、考える。
「──ごめん」
 それはできない。
 かすれた声で答えると、彼はにじむようにじんわりと、淡く笑った。左の袖に触れていた手が、そっと離れていく。
「そっか、だよなー。ごめんな、ヘンなこと言って。にーちゃんにとってはその時計、すっげーだいじなんだもんな」
「そういうわけじゃ」
 ない、と否定しようとして、けれど声にならなかった。
 相続とかなんとか、そのあたりの話を僕は放棄してしまった。だから、僕の手元になにかが遺るとすれば、きっと、このひとつきりだ。高校に入学が決まった春に、なんの前触れもなく送られてきたこの腕時計には、父の筆跡で書かれた手紙が添えられていた。その、たった一行を、焼きつけられたように覚えている。

 高校入学おめでとう。こちらの空も綺麗だが、そちらの空はどうだろうか。

 ぷっつりと黙り込んだ僕に、彼はなにも言わない。息を吸うだけで喉が震えて、きつく奥歯を噛みしめる。
「──あのな、にーちゃん」
 ふと、投げかけられた声が、あまりにやわらかくて。はっと彼の顔を見る。彼は、びっくりするくらい優しく笑って、空を見ていた。星を見上げたまま、こちらを見ないまま、彼の言葉は続く。
「悲しいときは、泣いていいんだぞ」
 ぴたりと、身体の震えが止まる。かわりに、声が揺らぐ。泣き出す寸前の子どものように。
「……いまさら?」
 短すぎる問いを、なのに彼は正確に紐解いて。
「いまさらでもなんでもねーよ。にーちゃんはさー、たぶんだけど、泣かなかったんじゃないと思うぞ。にーちゃんはずっと、泣けなかったんだ」
 どうして、と尋ねたかった。僕が尋ねるより先に、彼は答えを返してくる。
「オレも、すっげー泣きたかったのに、ぜんぜん泣けなかったもん。それに、にーちゃんはオレよりめちゃくちゃ頭がいいから」
 だから、泣きたくても泣けなかったんだ。
 彼の言葉は、僕の質問への答えになっているようで、実際のところ直接の答えではなかったと思う。けれどそれは、僕にとってはあまりにも真実だった。
 頬を、あたたかいものが伝って落ちた。こちらを振り向いた彼の笑顔がぼやけていく。それでようやく、泣いているのだと自覚した。ぼろぼろと流れる涙の止め方を、僕は結局知らないままだ。ただ、そう、なにを言えばとか、なにをすればとかいうことではなかったのだと知った。食いしばった歯の隙間から、嗚咽が勝手にこぼれ落ちる。
 声を上げて泣いた。
 僕に星の読み方を教えてくれたあのひとは、もう、どこにもいない。

「──さてと。きょうが最後なら、宿題も提出したほうがいいよね」
 なんとかいつものトーンを取り戻した僕の言葉に、少年は意図を汲みかねたように瞬く。
「へ?」
「……君が言い出したことだろ。『流れ星に願いをかけるわけ』、調べてきたよ」
 告げれば、ぱっと少年の表情が明るくなった。わかりやすいやつ。
「流れ星に願いをかける、っていう考えは、キリスト教世界から持ち込まれたという説が有力だね」
「ふむ」
「僕もキリスト教を信じているわけじゃないから詳しくないけど……彼らの考え方だと『星は神の目であり、流れ星は神の耳』もしくは『流れ星は神がこの世界を覗くための裂け目』である、らしいよ」
 べつに、キリスト教を信じるひとすべてがこう考えているのだとは思わない。ただ、少なくとも、日本に持ち込まれた考え方はこうだった──と、されている。僕が見た資料ではそうだった。
「かみさま、なー……」
 少年は空をあおぎ、祈るように目を閉じる。
「見てんのかなー、オレとかにーちゃんのことも」
「……まあ」
 信じることは、自由だ。
 残念ながら僕自身は、神さまなんてものを純粋に信じられるほど、世界に期待していないのだが。だからといって、信じることそのものを否定するつもりもない。
 よって、僕からの返答は、こうなる。
「ありえないとは言い切れない」
「うーわぁー。冷たいなー、にーちゃん」
 彼はおどけて、しかしすぐに険しい表情に戻る。
「じゃあ、ひとつくらいならお願い聞いてくれんのかな?」
 呟いた声は、明るく聞こえて、そして真剣な響きが混じっていた。その感情がどこに向いているのか、ふと気になって、訊いてみる。
「聞いてくれるとしたら、なにを願う?」
 こちらとしては何気ない質問の類。だが、ぎくりとして僕を振り返った彼の顔を見て、──踏み込むべきではなかった、とすぐに悟る。言いたくなければ構わない、と告げようとして、それは遮られた。
 静かな双眸が、僕を見据える。
「笑うなよ?」
 ──君は、言ってくれるのか。星に祈る、なんて迷信に縋ってまで叶えたかった願いを、通りすがりのお節介でしかない僕に。
「笑わないよ」
「そっか」
 少年はベンチに腰かけて、空を見上げる。僕も、彼の言葉を待ちながら、星を探すことにする。徐々にピントが合っていく、よく知った感覚。やわらかい夜風が吹き抜けて、さらさらと木々の葉を揺らす。僕の黒い髪も、彼の白い髪も、ふわりと風をはらんで舞っている。イヤフォンの白いコードが、ゆるやかに僕らを繋いでいる。淡々と流れ続けるノイズは、川の音にも少し似ていた。いくつもの星々が、空を流れていく。そういえばそうか、いまはペルセウス座流星群の時期だった。いろいろありすぎて、忘れていた。腕時計の星図と、満天の星を照らし合わせて確かめれば、ちょうど僕らが見上げているのがペルセウス座の方角。いつかも見た、きらきら流れる星の光は、泣きたくなるくらいに綺麗だった。
 どれほどの時間、そうしていただろう。小さな声が、耳に届いた。
「……オレ、家族がほしかったんだ」
 その声は、かすれて、枯れたようで。
 言葉を失った僕に構わず、彼は話し続ける。星々を眺める横顔は、かすかに笑っているようだった。
「優しい母親と、厳しい父親と、ケンカもするけどまあ仲がいいきょうだいと、もしかしたらおじいちゃんとか、おばあちゃんとか、いとこなんかもいたりして……って。そういう、フツーの家族がほしかったんだ」
 その願いは、つまり。
 僕が言葉にできなかった続きを、彼は驚くほど低い声で呟く。
「そんなの、オレにはぜったいありえないからさ」
 ありえない、か。
 少年はくるりと僕を向く。首をちょっと傾げ、取り繕うように笑顔になって、
「あれ。言ってなかったっけ? オレ、家族いないんだ。なんだっけ、よくわかんないけど、いまいる家も自分ちじゃなくて。で、ここじゃないとこ、べつの親戚のとこに行くって決まったんだってさー」
 彼の口調は、あくまで軽い。彼はその意味をわかっていないのか、それとも理解した上であえてとぼけているのか。
 どちらにせよ、僕にできることといったら。
「……そうか」
「うん、なんかよくわかんないけど、そうなんだって」
「どこに行くんだ?」
「んーと、……なんだったかな。聞いたことない町。ごめんなー、覚えてなくて」
「べつにいいよ」
 それを知ったところで、簡単に会いにいけるわけじゃない。
「出発はいつ?」
「あした」
「ずいぶん急だね、また」
「まあ、しょうがないよなー。そーゆーもんだ」
 少年は空へ手を伸ばす。すっと流れた星の軌跡を指でたどって、そっと目を伏せて。
「あ。そうだ、最後にいっこ、聞いてもいいか?」
「なに」
「にーちゃん、なんで『流れ星』のこと、ぜったい『流れ星』って言うんだ? ほら、流星散乱とか流星群みたいに、『りゅーせー』って言い方もあるんだろ?」
 呼吸が止まるのを、自覚する。──まさか、そんなことにまで、気づかれていたとは思わなかった。それは、いままでの自分なら絶対に答えたくなかった質問。その答えは、僕がいちばん嫌いな言葉だ。
 僕はふっと、苦笑を浮かべた。ついさっきの彼の言葉を借りて、応じる。
「ああ、言ってなかったか?」
「聞いてないなー。なになに?」
 軽やかな口調に釣り込まれるように、僕もさらりと答える。
「僕の名前なんだ。『流星』と書いて、『るせ』。だから」
 この名前が、僕は、大嫌いだったんだ。
 流星の正体は、燃え尽きてしまう宇宙の塵。こんな名前をつけるなんてどうかしていると、親に向かって毒を吐いたこともある。そもそも普通には読めないし、響きも変だし。散々、笑われてきた。
 でも、まあ。
「悪くはない名前だよね」
 うまく笑えていれば、いいんだけど。
 そんな心中を知ってか知らでか、彼はいっそう明るい声で。
「かっけー! わかった、るせにーちゃんな! 覚えとく、っつかぜったい忘れないと思う!」
 だって、覚えといたらまた会えるかもしんないじゃん。
 少年は笑った。つられるように、僕も笑った。夜の静寂に笑い声が響いて、やがて。
「──あーあ。そろそろ、帰んないと」
 時計を見ると、午前零時。少年はそっとイヤフォンを外して僕の手に託すと、僕の目をまっすぐに見た。ゆっくりと、はっきりと、噛みしめるように。
「じゃあ、またな、にーちゃん」
 いつもと同じ挨拶は、けれど。僕は、心がけてさらりと応じる。
「ああ、また」
 彼は笑う。嬉しそうな、幸せそうな笑顔。さらさら揺れる、真っ白な髪。いつにもまして、赤くなった目。そして、きゅっとスニーカーを鳴らして僕に背中を向ける。強く地面を蹴って、駆け出した。
 今宵の空に、月はない。深い夜の町並みに、小さな後ろ姿が溶けていく。見えなくなるまで見送って、僕は星降る空を見上げた。ひときわ明るい流れ星がひとつ、空を駆けていく。片耳で星を聞きながらそっと目を閉じると、光の軌跡がまぶたの裏に残って、燦然と輝いていた。


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