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第1幕『流れ星の少年』 #3

8月4日
月齢:22.0(下弦の月)
天候:晴

 父親の訃報が届いた。
 旅先での、不慮の事故だった。

 日は傾きはじめていたけれど、まっすぐ帰る気にはなれなかった。駅を出て、どこか。思い浮かべたのは、きのう見た砂まみれの専門書。あれは、すぐそこの、県立図書館の本だった。ちょうどいい、ふらりと立ち寄って、適当な本を借りて。正面玄関のベンチで、借りてきた本を開いた。いちおう正装を、ということで羽織ったジャケットが恨めしい。この斜陽の下では、暑いことこのうえない。
 内容なんか頭に入ってこなかったけれど、形だけでも。ラジオの砂嵐をBGM代わりに、指先で文面をたどる。……曰く、流れ星に願いをかけるという考え方の起源はキリスト教にあるのだとか、なんとか。
「──にーちゃん?」
 いい加減、耳に馴染んできた声だった。見上げると、赤い瞳が不思議そうにこちらを見下ろしている。小さく息を吐いて、ヘッドフォンを外す。
「こんなとこでなにしてんの?」
「見ればわかるだろ。君こそ、なにしてるの」
「オレは、……きのう汚した本のこと、謝りにきた」
「そう」
「でもな、図書館のひと、めっちゃ優しかった! 図書館には、本をなおせるお医者さんがいるんだって。だから、なんも心配いらないってさー!」
「ならいいけど」
「ていうか、なんで制服? いま夏休みだよな、にーちゃん夏休みもガッコーあんの?」
「いや」
 ただ授業があるだけなら、わざわざジャケットまで着込んだりしない。うちの校則だと、夏服ならシャツ一枚でも平気だ。
 正装をまとったのには、それなりに理由がある。僕は本のページに目を落とし、ぽつりと答えた。
「父親の葬式」
「そーしき」
 幼い声がそのまま反芻した、かと思えば。反応がないのを訝しんでちらりと見上げると、彼の顔から血の気が引いていく。ただでさえ色の白い彼は、真っ青というか、真っ白な顔をしていた。色のなくなった唇が震えている。
「にーちゃんのおとーさん、亡くなったのか」
「ああ。旅先で、事故に遭ったらしいよ。二日間意識不明で、そのまま意識は戻らなかったって」
「そ、っか」
 彼は考え込み、やがて何度か指を折って数えはじめる。なにかと思えば、
「だからあの日、あんな死にそうな顔してたのか」
「は?」
「……違うの?」
 そういう、ことか。そのとおりだとも、違うとも言い切れなかった。僕は無意識に、唇を噛んで黙りこくる。沈黙は数秒、慌てたような彼の声が降ってくる。
「……あ! そうだ。なあ、にーちゃん」
「なに」
「ちょっと目に入って、気になってたんだけどさー」
 彼は僕の手元を覗き込む。左手首に巻いた、時計を。ほとんど反射で左手を引っ込めると、彼は少し困ったように笑った。彼が首を傾けるのにあわせて、さらさら、白い髪が流れる。
「怖い顔すんなよー、横取りしたりしないから! その時計、どうやって読むのか教えてほしいだけ! きのうオレの荷物拾ってくれたときとか、説明してくれてたときとか、ずっと見えててさー。オレ、その時計の見方がわかんなくてすっげー気になってたの」
「……ああ」
 知らず、自分の左腕を掴んでいた右手をほどいて、軽く腕時計を撫でる。そうか。僕にとっては見慣れているこの時計も、そういえば。
「これ、星図になってるんだ」
「せーず」
「星の地図、みたいなもの。どの星が見えるのかを調べるのに使ったりする道具。この時計だと、文字盤のところに、いま見えるはずの星空がほぼそのまま出てくるようにつくられてる」
「え。……え! うわ、なにそれすげー!? ちょっと見せて!!」
「やだ」
 きっぱりとした拒絶。自分が思っていたよりはるかに硬質な、冷たい声だった。彼は赤い目を見開いて、僕はといえば左手首を握りしめてうつむく。まるで逃げているみたいだ。
 違う。逃げているんだ。
 この腕時計を贈ってくれたのは父だった。──いまは、そういうことを、考えたくなかった。
「……え、っと。あ、そうだ! あのさ」
「へたな気遣いなら、しなくていいよ」
 彼の表情が凍りつく。けど、でも、とか続こうとした言葉を、ふたたび遮った。
「べつに、なんとも思ってないから」
 言い切ってしまえば、楽になると思った。なのに、口に出した途端に心が音を立てて軋む。それに構わず、僕は言葉を並べ立てる。
「ずっと前から、帰ってきてないし。最初からいなかったひとが、──死んだところで、なにも」
 死んだら、死んじゃうんだぞ。はじめて会ったとき、彼はそう叫んでいた。そのとおりだ、死んだら死んでしまう。死んだからなにがあるとか、そういうわけじゃない。死んだら、それで終わりだ。父の人生は終わった。それだけの話だ。
 それに、僕と彼のあいだに沈黙が落ちるたび、彼はなにかしら話の接ぎ穂を必死に探して声を上げようとする。そのことが、いまの僕には、ひどく苦しい。
 蝉しぐれに包まれた、夏の盛りだというのに、僕らを取り巻く空気は真冬のように鋭く冷たかった。少年はしばらく僕の様子を窺っていたようだけれど、ぐしゃりと一瞬だけ顔を歪めると、ゆっくり、ぎこちなく笑った。その表情は、きょう散々耳にしてきたどんなお悔やみの言葉よりも、深々と胸に突き刺さった。
「なんか、ごめんな! オレ、きょうは帰る! 用事も終わったし!」
「そう」
「ん。それじゃ、またな、にーちゃん!」
 ひらりと手を振って、振り向くことなく走り去っていく背中。夕焼けに溶けていくその姿を目で追っているうちに、ふいに少しだけ理解した。
 またの機会というのは、死んでしまえば二度と来ないのだと。
 
 

 それからの一週間のことは、ほとんど覚えていない。嵐のようだった気もすれば、しんと凪いでいたような気もする。ただ、そう、ぽっかりとした空白のなかで、ラジオの砂嵐を聞いては流れる星を数えていた。
 そのことだけを、うっすらと覚えている。


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