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幕間『紅色の彼は誰』


 空が青い理由を、教えてもらったことがある。
 小学生のころに訪ねた、高校の文化祭で。先生みたいなお兄さんと、お兄さんとはべつの意味で先生みたいだったお姉さんが、私たちの質問に答えてくれた。あれは、光の散乱によるものなのだ、と。
 なにごとにも理由があるんだな、当たり前だと思うことにも原理はあるんだな、って、すごく感動したのを、やけにはっきりと覚えていて。青空を見上げるたびに、あの教室をぼんやり想った。あのお兄さんとお姉さん、元気だといいな、なんてことも、願った。
 志望校を決めるときも、決め手になったのは、きっと、あの記憶だったのだろうな、と思う。

 でも、だったら。
 疑問に、思うべきだったんじゃないのか、って。
 空が青いのを、なぜ、と思えるくらいには、私は聡明だったはずなのだから。
 だったら。

 ——あなたの瞳が赤いのも、あなたの髪が白いのも。なにか、事情が、あるのかも、って。
 考えてみなければ、ならなかったんじゃ、ないのか。



 その子の第一印象は、不気味、だった。

 小学校の転入生として、私の前に現れたその子は、真っ白な髪に、真っ赤な目をしていて。見たことのない、色彩で。
 たまたま隣の席になって、よろしくなー、って言われたとき、なんで、と放ってしまった。差し出された手を取るための質問じゃなかった。あきらかな、拒絶、だった。その子は困ったように笑うだけで、それ以上なにも言ってはこなかった。

 そのあとの彼が、散々な目に遭っていたのを、私は知っている。だって、隣で見てた。知っていながら、見ていながら。私は、なにもしなかった。なにも、できなかった。
 彼をかばって、自分に矛先が戻ってくるの、想像するだけでも耐えられなかったから。
 きっと、恨まれているだろうなと、思った。思いはしても、声なんか出なかったし、足も手も動くことはなかった。
 私だって、怖かった。だけど、そんなの、見過ごしていい理由になんかならないって、わかっていた。
 私だったら、助けてほしかった。そうと知りながら、私は見捨てた。


 ふたつめの印象は、不可解。

 遠方へ転校していったはずの彼は、高校のクラスメイトになった。そして、ここでも彼は、孤立していた。
 知ってる、彼はいつだって歩み寄ろうとしてた。だって、私、隣で見てた。
 知ってはいたけど、わからなかった。あれだけ傷つけられておいて、なお笑う、手を差し伸べる。その強さがどこから来るのか、私には理解できなかった。かつての負い目も重なって、彼のことを、ますます遠ざけてしまって。
 彼と周囲の断絶は、深まっていく一方だった。

 三年生の、文化祭。
 みんな、受験勉強とかで、ぴりぴりしてて。それでも、これが最後の思い出づくりだから、みたいな。ぎりぎりの均衡で、平和な空気が保たれていた。その平和に含まれていないひとりがいること、そのひとりを犠牲に成り立たせている幻想でしかないってことは、みんな見て見ぬふりをしてた。
 文化祭のお化け屋敷、だいじな役どころに、やっぱり見た目のインパクトがあるひとを持ってきたい、って話になって。背が高い子、髪が長い子、いっそ小柄な子、いろいろと意見が出たけど。
「もうさ、あいつでよくない?」
 その一声で、流れが変わった。変わって、しまった。
 無責任だ、と思った。覚えてる、彼は暗所と閉所が不得手だって、最初のアンケートで申告してた。それで、受付のシフトを増やすかわりに、屋敷内の役者からは外す、って話でまとまってる。
 本人のいないところで、覆していい約束じゃない。言うべきだって思ったのに、結局、この期に及んで声は出なかった。
 最終下校時刻の間際、誰もいなくなった教室で。床に叩きつけた両の拳が、ひどく痺れた。


 みっつめは、恐怖。

 身勝手だな、って思う。だけど、もう、怖くてたまらなかった。あんな顔、あんな声、あんな目、するんだ、って。
 私たちのしてきたことは、それだけあなたを追い詰めてしまったんだ、って。

 やっぱ役者やって、なんて、誰も面と向かっては言い出せなかった。だから、察してよ、とかいう最低な方法を、みんなが取った。そんなの、通じるはずがない。本来の割り当てを丁寧にこなしてくれてる彼に、とうとう誰かが声をかけて。
 そのあとの彼は、もう、抜き身の刃みたいだった。淡々と、整然と、なんならかすかに笑いながら。自分は見世物じゃない、って、私たちの要求を切って捨てた。
 当然の権利だと、私は思った。だから、あなたが断ってくれたことに、いっそ感謝してしまった。だけど、
「俺がアルビノだから?」
 そのひとことで突きつけられたのは、自分の無知と愚かさだ。それを、アルビノ、って言うことすら、私、知らなかった。知ろうと、してこなかった。
 それって、なんの理由にもならないよな。冷ややかな声でつけ足されて、視界がとうとう歪んだ。握りしめた手に、切りそびれたままの爪が食い込んで、ひどく痛んだ。
 クラス全員が黙り込み、彼は教室を出ていく。最後の最後、振り返った彼と、目が合った。いまさら、言葉なんか出てこなかった、けど。彼は、軽やかに笑ってみせた。
 ここで泣く資格があるのは、私じゃない、と思った。だって。
 泣いていたのはあなたのほうだ。
 泣いていいのも、あなただけだ。


 そんな彼に対しての、最終的な印象を。
 私は、なんて言えばいいんだろう。

 空が青い理由を、教えてもらったことがある。ずいぶん昔の、この高校の文化祭で。あれって、どこの展示だったのかな。
 クラス展示、ではなかったのだと思う。あのお兄さんとお姉さんの、ふたりきりしかいなかったし。部活、かな。だけど、どこの部だろう。文化祭が終わったあとで、展示のリストをいまさらたどる。それらしいのは、天文部しか思い当たらなかった。
 校舎の辺境、地学室。意味なんかない、わかっていたけど、訪ねてしまった。地学室のドアをノックしてから、返事があるまでの数秒で、ようやく思い出した。
 あなたは、天文部の部長さん、だった。

 地学室に踏み込むと、ふわりと紅茶の香りがした。窓際に立っている、パーカー姿の男子生徒がひとり。白い髪、赤い目、白い肌。窓辺に、湯気の立つ白いマグカップ。私をみとめると、首をひねって。
「あれ? 後夜祭、行かなくていーの?」
「波多野くん、こそ」
「ええ? 俺が行く理由あると思うかー?」
 そのとおりだった。でも、行けなくさせたのは、結局、私たちのほうだ。話を、そらすことにする。
 ここまで来ておいて、私はまた逃げてしまう。
「なに、してるの?」
「んー? 祭りのあとのお片づけ」
 言われて、ようやく教室を見渡す。たしかに、すごい散らかりよう。おもに、大量の紙資料。いつの時代のもの、だろう。彼は、手近な紙から手に取っては、揃えて、まとめて、箱へ戻す、って作業をしていた。
「展示の教室が違うのをいいことに、とにかくとっ散らかしたからなー。ちょっと、いまのうちに片しとかないと、未来の俺に怒られる」
「……手伝う?」
「あー……いや、お気持ちだけ受け取っとく! いちおう、天文部の部外秘資料、って扱いなんで」
「そ……っか」
 それを言われたら、引き下がるしかない。なるべく、資料の内容も見ないようにしておこう。視線を、軽く伏せる。私、いったいなにをしに来たんだろう。自分のつま先、黙って見つめていたら、
「そういや、小学校でも一緒だったよな」
 さらりと言われて、息が詰まった。おそるおそる、顔を上げれば、困ったみたいな笑顔が私に向けられていた。
「たぶん、だけど、気ぃ遣って黙っててくれたんだろ? ありがとな」
「お礼、なんか」
 そんな言葉を受け取る資格、私にはない。傷の治りきっていない手のひらに、また爪を食い込ませてしまう。
「だって。だって、私、あなたのこと、助けられない」
 これまでも、これからも。私のために、あなたを見捨てる。
 あの教室に戻ったら、私は傍観者に戻る。それ以外の生き延びかたを、もう、思い出せない。だっていうのに、
「そんなのいいよ、べつに」
 即答だった。あなたは、不気味なくらい、怖いくらいに、どこまでもまっすぐで。私の理解なんか、軽々と飛び越えていってしまう。
「助けてくれ、って頼んだわけでもないし。頼んだところで、そっちが引き受けなきゃならない理由もないじゃん?」
「だ、けど……っ」
 けど、の先に、私はなんて言葉を続けたかったんだろう。泣くな、って、頭のなかで声がする。とっくに滲んでいる視界を、どうしたらいい。肩が震えて、手が震えて、どうしようもない。
 そんな私に、あなたの声は。なんでもないことみたいに、天啓を告げるのだ。
「んー、じゃあさ。助けてやって」
 もう、ぼやけすぎて、表情のひとつもわからない。でも、彼の声は、どこまでも軽やかに。
「俺のことをどうこうするのは、この際スッパリ諦めてもらっていいから。まあ、隣の席だし、見ててキツイだろうけど……その、痛いのとか、悔しいのとか、苦しいのとか、しっかり覚えといて。そんで、次にまた誰か、泣いてるひとがいたら」
 彼はいったん、そこで言葉を切って、それから。笑った、ような、気配があった。
「今度こそ、助けてやってほしいなー、って」
 舌の上で、涙の味がする。それでようやく、泣いているって気がついた。彼はそのことを、咎めたりなんかしなかった。私が泣いているなんて、知らないみたいな口ぶりで。ただ、私の意志を、問うてくる。
「どうだろ、頼まれてくれる?」
 頬を、手の甲で拭う。一度洗われた視界で、赤い瞳が私を見ていた。朝焼けみたいに、綺麗な双眸。
 返事に迷う理由は、もう、なかった。
「——わかった。任せて」
「おう! そんじゃ、そのときは、そのひとのこと、よろしく頼むなー!」


 今度こそ、心に決めた。私、先生になる。
 あの日のお兄さんみたいに、ひとを引き込む講義ができて。あの日のお姉さんみたいに、それぞれの想いに寄り添える。そういう、素敵な先生に、なって。
 あなたが、泣かずに済むような。心から、笑って過ごせるような。
 そういう教室を、学校を。

 私の一生ごときじゃ、足りないと思う。それでも、私、やるよ。
 礎くらいは、築いてみせる。


 それ以来。
 朝焼けの空を見上げるたびに、この約束を思い出す。青い空に願いを託すのと、同じように。赤い陽光に、誓い直す。

 私、やるよ。やれるだけのこと、やってみるから。だから、さ。
 あなたも、どうか。元気でね。
 笑顔で、いてね。


『流星の声がきこえる』特装版の刊行から2年ほど経ったころ、「いまなら書けるかも」と思って書き下ろした掌編作品です。経緯上、文庫には収録していなかったり。ひっそり、ここに置いておきます。

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