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『イルカとあおぞら』#9

3月12日 金曜日
 
 
 きのうが、わたしの卒業式だった、らしい。
 事前に話したとおり、卒業証書と記念品が郵送で届いた。卒業おめでとう、って、湊と橙子さんが祝ってくれた。ひーちゃんからも、おつかれさま、ってメッセージが来てた。
 
 おかあさんがいたら。おとうさんがいたら。なんて、言っただろうか。
 卒業おめでとう、って。そう、言ってくれたんだろうか。
 
 
 なんでなんだろう。
 なんで、わたしは。
 
 
 
 ふわっ、と。身体が浮いた、ような気がして。なんだろ、まぶたがすごく重たい。それでも、どうにか、うっすら目を開けてみる。
「——あ。起こしちゃった?」
 頭のすぐ上から、聞き慣れた声。ぼんやりと見上げれば、綺麗な緑の目がわたしを見ていた。思ってたより、ずっと近い。びっくりしすぎて、呼吸、ちょっと止まった。こちらを見つめる目元はやわく笑ったまま、だけど、ほんの少し、困ったように眉が下がって。
「勝手にごめんね? さすがに、床で寝てるのはほうっておけなかったから」
「あ、えと」
 状況に、頭が追いついてこない。なんだかよくわからない、けど、
「おかえり、なさい?」
「うん、ただいま」
 宙ぶらりんの足が地面を求めて、勝手にふらふら。あんまり動くと危ないよ、って苦笑いされて、ゆるく抱き寄せられる。それで、ようやく理解が追いついた。慌てて、湊の襟元をきつく掴む。
 お姫さま抱っこ、て。ほんとにできるもの、なんだ。そうと認識した途端、一気に体温が上がる感覚があった。空いているほうの腕で、顔を覆う。どうしよ、首筋まであつい。顔だけ隠したところで、なんにも意味ないとは思う、けど。
 そもそも、なんでこんなことに。とっさに逃がした思考が弾き出した疑問は、もう、八つ当たりみたいな内容で。口に出していないはずの問いに、湊の声が答えてくる。
「びっくりしたよ、帰ってきたらリビングでるりが倒れてるんだもん」
 そういう、ことか。
 立場が逆だったとして、湊がフローリングの上で寝ていたら。それは、さすがに、わたしだって抱き起こそうとするはずだ。抱え上げる、までは、わたしにはできないにしても。そんなの、ほうっておけるわけ、ないと思う。
 ぐるぐる、逃げ続けるように考えていたら、こつんと額があわせられて。心音が、思いきり跳ねた。なんで。なんで、そういうこと、する、かな。ちょっとだけ、顔を隠していた腕、ずらしてみると。
「なにごともなくてよかった」
 一瞬、いつもどおりのトーンに聞こえた、けど。この距離だからわかった。湊の声、かすれてた。祈るみたいに目を閉じて、わたしの頭を片手でそっと引き寄せてきて。
 
 ——わたし、さっきまで、リビングでなにしてた、っけ。
 
 思い出した。今度こそ、ほんとに息が止まった。リビングの、ローテーブルの上。書きかけの日記。わたしが、そこに記していた、内容は。
 書いた覚えはある。書いてしまったときの手ごたえ、覚えてる。だけど、ノートを閉じた記憶は、なかった。尋ねようとするだけで、もう、頼りなく喉が震えた。
「ノート、は」
「見てないよ」
 やわらかい声で告げられたのは、たぶん嘘だ、とすぐにわかった。けど、いまだけでも、見なかったことにしてくれるのなら。それで、じゅうぶんだと思った。
 ぎゅう、と制服のシャツにしがみつくと、髪を崩すようにくしゃっとなでられる。指で髪を整えられているうちに、ふにゃり、意識の輪郭はまたぼやけて溶けていく。おやすみ、と耳元に落とされた声は、いつもどおりに穏やかで、それでいて、いつもよりほんのちょっと甘い響きをしていて。
 いまは、このぬくもりに、縋っていたかった。甘やかしてくれるこの手に、ただ、甘えていたかった。
 
 
 
 
 
 ——なんで、わたしは生きているんだろう。
 あの日からずっと、君がそう問うていると知っている。だから、ずっと考えている。どういう言葉なら、どういう想いなら。
 
 どういう答えなら、君に届くのだろう、と。


『イルカとあおぞら』note版は、いったんここまで、となります。
note版を投稿し始めた当初の大きな目的だった「制作中の息継ぎ」が、本編完結により必要なくなっちゃったので、区切りのよいこのタイミングで。

続きは、文庫本にてお楽しみいただければ嬉しいです。


ここまでおつきあいいただき、ありがとうございました!

2022/12/31
雨谷とうか @ameya_ayameya

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