秘匿のグルメ
味にうるさいと言われる。
自分では全くそんなつもりはないのに言われる。
ジャンクフードも高級なお料理(ありつくことはないけれど)も駄菓子でも、それなりにおいしく頂ける、と自分では思っている。
思っているのだが、外食に出かけたときは確かに自分のなかで品評を加えてはいる。
定食の焼き魚がしっかり脂がのっていて、それが炭火でいい感じにあぶってあっておいしかったとか、ご飯の炊き方がたいへんよろしかったとか。
あるいは中華料理屋であんかけ五目焼きそばを食べたとして、麺はイマイチだったけど、野菜はシャキシャキ感があっていい感じに炒めてあったから、こんどは野菜炒めを食べに来てみようかなんて、次回にむけた反省みたいなことを考えることもある。
さらに言えば、この焼き鳥はパサパサしていていただけない。失敗したなあ、もう行かないな、と思うこともあるわけである。
外食の楽しみとはだいたいそんなことを考えることにもあると私は思っている。
食べてきたものをもう一度噛みしめるように振り返る。そうして、その一期一会な店と食との出会いを自分のものにしていく体験。それが外食だと思うのだが、こういうことをいちいち考えること自体がうるさいのかもしれない。
これがひとりでいれば、このうるささのようなものも、ただ内心思うだけで済むのだが、誰かと外食に出かけたとき、これがつい口をついて出てしまうことがある。
おいしかったという感想だったらいいのだろうが、ついイマイチだったという内容も口にしてしまうことがある。
店を出るなり首を傾げ、顔をしかめて「ああ、失敗したなあ」とつい言ってしまう私がいる。
これがあまり食に頓着のない他人をして、なかなかに気分のよくないものらしいのである。
食に頓着のない者にとって、よっぽど不味いものでもないかぎりは、大半のものはそれなりにおいしくいただけるものであるらしい。
そこへきて連れ立って来た奴が、いちいち御託をならべながら、タイヤ屋の調査員か、某漫画の新聞屋かなにかのように、イマイチだのなんだのとのたまうのである。
話しているほうはいいのだろうが、聞かされるものは不味いものでも食べてきたのではないかと思えてきて、あまり気分のいいものではないそうである。
確かに考えても見れば、自分がおいしいと思って食べてきたものに、いちいち御託を並べて、ああだ、こうだ、イマイチだ、と言ってくる奴がいたら「いちいち、うるせえな」と思うことだろう。
一緒に楽しくご飯を食べに行った方の気分を害するのはもちろん本意ではない。
イマイチだと口にするときは、あわよくば共感してもらおうと思っている自分がいるのだが、食の評価はひとそれぞれだ。
私はそう思うかもしれないが、私以外はみんな、おいしいと思っているかもしれないし、あるいはどちらとも思ってすらいないのかもしれない。
そこにきて私がいちいち美味いか不味いか、白黒をつける必要は別にないのである。
というわけで近頃は外食に出かけるたび、思ったことはあまり言わないでおこうと気をつけている。
気を付けているのだが、これがなかなか難しい。
ダメだった店に当たったときには、いかんせん顔に出る。
どうしてこの店にしてしまったのだろうかと、我が身を恨む自分を隠し切れない。
言葉に出さなくても、首をかしげて、顔をしかめるというところまでは、ついついやってしまうのである。
それでも、せめてだれかと食べにでかけるときは、グルメっぽい自分が表に出ないように気を付けようとは思う。
だいいち私も食通というわけでもなく、味の繊細な違いが判るでもないのだし。だれかと話すのはおいしかった、楽しかっただけでいい。
孤独のグルメは独りのときだけで。
だれかといるときにはグルメぶるのは心に秘めて。
ひそめてグルメ。
秘匿のグルメ、というのも結構大切な技術なのかもしれない。