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文学フリマとパストラル

先日開催の第38回文学フリマ東京にC1講義室として参加した。
東京流通センターでの開催はいったん終わり、次回は東京ビッグサイトに移るそうである。
C1講義室も初参加からはや八年。
第22回からの参加なので古参というわけではもちろんない。
それでもイベントの様子が変わってきたことをひしと感じる一日だった。
もろもろ前回に始まったことではないけれど、とにかくスペースを回り切らなくなった。
私たちが最初に参加した第22回のブース数が751で、直近の第38回が2096。
入場者も3500人から、12,283人へとざっくり三倍くらいの規模になっているので驚かされる。
最初に参加したころは、二時過ぎくらいから相方の小島君に店番をお任せし、見本誌コーナーをぶらぶらしてからようよう会場を見て回る、ということもできていたのだけれど、いまやそんな牧歌的なことはままならない気配である。
見本誌コーナーは二つに分かれ、しかも一つのコーナーを読んで回るだけで相当な時間がかかるので、あまりのんびり品定めもしてはいられない。
さらに会場へと分け入れば目に見えての大盛況ぶり。人でごった返した通路を歩くのにはほとほと苦心するありさまである。
満員電車と人混みをこの地上でもっとも憎む田舎者で、万年坐骨神経痛に悩まされている通称〈若年寄〉雨下にはあまりに過酷な現実なのであった。
やはりこれは純粋に参加するサークルの数が増えたこともあるのであろうが、商業で活躍されている作家さんが増えたことも一因なのだろうかとも、ちょっと思ってはいる。
これは前々回のことではあるが、あの直木賞作家の万城目学先生が我々のブースの目と鼻の先で本を手売りしているのを目撃したときの衝撃が今も思い出される。
あのときの私はさながら近所に建設された巨大なイオンモールに戦慄する田舎の商店街の金物屋店主であった。
実際、金物くらい重たい700ページ越え、厚さ約5センチの文庫本(通称:鈍器)を製造してしまったせいで通りすがる人たちの失笑を買い、恥ずかしさに震えていたというのもあるのだけれど。
これはイベントでお買い物をされる方のお財布が有限であること考えれば、草野球チームとプロ野球チームで試合しろっていうのかよ!という過酷かつ悲惨な状況とも取れる。
ただ来場者が純粋に増えるという点を考えれば、あのプロ野球選手たちと同じステージに立てる!という一世一代、またとない魅惑の大舞台であるとも取れる。
個人的には後者の心意気でいたいとは思うが、かつてよりどことなく、せかせかと歩く人が増えたような気がするあの会場では、なんだか自信がもてないよ、という弱気な心がもたげてくるのであった。
ともかくいよいよこれから会場を移し拡大を続ける文学フリマ東京に、かつての牧歌的な文学散歩が戻ることはどうやらなさそうである。
あるいは、それぞれが渾身の文学を披露し合うあの会場に牧歌なる考えが、そもそも似合わなかったのかもしれない。根っから呑気な田舎者である私にはそれが少し寂しくはあるけれど、いまや心構えを改めるほかはあるまい。
C1講義室始まって以来のテーゼである「この世に爪痕を残す」ことを達成するためには執筆だけでなく、これまで以上にプロモーションに力をいれないと、ままならなくなるだろうとはうっすら危惧している。
でも、デザインセンスが壊滅的かつ万事につけて控えめな私にそんなことができるかしら、どうかしら。けれども参加する限り、結局我ン張る僕の性。〈若年寄〉なりに頑張って何とかするほかなさそうだ。
ところで、拡大を続ける文学フリマについて、個人的にどうしてもお願いしたいことが一つある。
文学フリマ東京に牧歌などという呑気な概念を持ち込む頓馬な私からのささやかでありながら、切実な祈りである。
次回もビッグサイトに移ってもどうかクルミドコーヒーさんにお越しいただきたい。
実は文学フリマ東京に参加する動機の半分くらいがクルミドコーヒーさんのコーヒーなのである。(小島君に怒られそう……)
毎度、自分のブースのパイプ椅子に座りながら、コーヒーを飲みつつ、行き交う文学愛好者の皆さんを眺める。これが私がひそかに愛する牧歌というやつなのである。
どうか次の文学フリマ東京もその次の文学フリマ東京も、私のひそかな牧歌が続けられますように。
売るのに忙しかったらそんなことはしていられないので、この祈りの半分は裏切られてほしい気持ちもあるのだけれど。

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