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緑色の薄手のティーカップ

 我が娘と仲良しで、近くの丘の上の小さな家に、母親と住んでいるという娘がいる。その子は、不思議なことに自分専用の緑色の薄手のティーカップを持ち歩いている。人様の食器を使うのは失礼だという理由で、彼女の母から持たされているらしい。

 不思議な事を考える母親だなと感じていた。我が家のティーカップを使わないのは、特に失礼とは思わないが、それぞれの家に、それぞれの考え方があるのだろう。

 彼女の住む家は、私の散歩道の近くであるが、さすがに丘の上までは行ったことがない。しかし、確かに茶色の小さな家があることは知っている。ちょっとした坂の上の住宅地の一角に、ぽつんとある。

 ある日の散歩の最中、ふとこの目でその家を確かめたくなった。
 いつもの散歩道から歩みを変え、坂道をゆっくりと歩き、茶色の小さな家の前に立った。遠くからでは見えなかったが、奥にテラスのある、優しい雰囲気を持った家であった。

 その時、近所の窓を開けた家から、若い娘たちの会話が聞こえてきた。どうやら、最近行ったお店のことを話をしているらしい。お茶やコーヒーなど飲み物1杯とちょっとしたデザートで、ゆっくり話せる海沿いの喫茶店。場所が景色のいい場所にあり、長居してしまうといった、他愛のない話であった。

 私は、その他愛のない話を聞いて、ふと若いころを思い出していた。
 とあるデパートの喫茶店。
 彼女と一緒にお茶と茶菓子を楽しんだ、あの窓の広かった喫茶店のことを。山並みがきれいに見えて、二人で会話を楽しんだことを。私たちの大事な思い出の一つであることを。その喫茶店のティーカップが緑の薄手であったことを。
 そして、そこで彼女と別れたことを。

 家に帰ると、例の彼女が、今日も娘と一緒に遊んでいる。

 私は、娘と彼女に、少し甘いアイスティーと、散歩の途中に買ってきた茶菓子をだそうとした。彼女はサッと、自分のティーカップを出して、礼儀正しく、母が紅茶が好きなことを私につぶやいた。そして、その緑の薄手のティーカップは、母からもらったことを。

 彼女は自分でティーカップを洗い、持ってきた布巾で丁寧に拭いて、専用の袋に入れた。そして、今日もいつも通り、あの丘の家に帰っていった。

 私は、改めて紅茶を入れ、少しのんびりとすることにした。
 棚の奥から、緑の薄手のティーカップを出してきて、ダージリンの香りに包まれながら、娘に出した茶菓子とともに、ゆっくりとした時間か過ぎていった。