職場でしゃべらなくなった理由

思ってもいない、あるいは感じてもいないことを話すのが得意というか、人と話すときはそうするものだと思い込んで生きてきたのですが、あるとき父のことを分析していて気づいたのでした。あれ、どうやらお父さんは自分が思ってもいないことを口にするなんてことは、したことがないみたいだな、と。

この世で最も気が合う人間が父だった(父がそのように私を育てたということなのでしょうが)ので、子どものころからよく父のことを観察したり、分析したりしていたのですが、そのことに気づいたのはだいぶ大人になってからでした。

幼少のころから私はなぜか、思ってもいないことがペラペラと口を突いて出てくる人間だったのですが、言いたくもないことを言うためにペラペラと口が動いているときはずっと不快を感じていることに、長い間気づきませんでした。自分でも気づきませんでしたし、人から見てもコミュニケーションすることに心地よさや喜びを感じる人間だと思われていたようでした。実は人といるのが苦痛で、ものすごく疲れてしまうのですが、自分でもどうしてこんなに慢性的に疲弊しているのかよくわからなかったのです。

その点、どんな人と話していても父ワールドが揺らぐことがない私の父はどうしているのかというと、どうやら心と一致しないことについては、理性で判断して控えているのではなく「口に出す」という選択肢をそもそも持っていないようでした。そんな方法があることを知らない、という感じです。心が「いい」と思っていないものに「いいですね」と言うことがないのです。「自分に正直でありたい」という正しさや、あるいは「言うべきではない」といった注意深さから口を“閉ざす”のとは違った、ただただ、自然な行為として、心と一致しない「何か」が口から出てくることがないだけです。自分が思ってもいないことは言葉になることがないのです。

私はというと心で「それはむしろあなたが悪いのでは…」と思っていても「あなたは何も悪くないですよ」と言いますし「どうでもいいです、死ぬほど興味がないです」と返したいような、どう思います系の問いかけにもその場でできる限り、しかも相手を感心させるような答えを返そうとします。「こう言ったら相手が喜ぶだろう」とか「こんなとき、成熟した人ならこう言うのだろう」というように、自分の考えや感覚とはまったく違う基準を持ってきて、想像し、それに似合うであろう言葉を心を込めて選び、言います。

条件反射のようにしてしまうものだったので気づきませんでしたが、感情や考えが心のどこかから湧き水のように湧くものだとして、神経が水路だとして、そこを流れて口から放出されるのだとしたら、その流れに逆らって押し返したり、違う水路を瞬時に作ったりするのは、私にとってはかなりの重労働のようです。その重労働に耐えられる人が、社会的で洗練された人なのだろうと思います。もしくは、重労働をすることなく放出される本心が、聞く人に何の負担もかけることがなかったり、聞く人を喜ばせたりする人もいて、そういう人こそ真に心も言葉も成熟した人なのだと思います。

お恥ずかしい話ですが、私は人との会話やコミュニケーションを接待やサービスのように捉えていたのかもしれません。とにかく相手に気持ちよくなってほしくて、来た球を反射よく打ち返せるように、人といるときはテンションが高く、少しの刺激にもけたたましく反応する状態です。こうして文字にすると悲惨さがくっきりとしてきて我ながら悲惨なのですが、さらにこれの悲惨なところは、接待されている人も大して気持ちよさを感じてくれないということです。

いつ、どこで誰といてもしんどい。嫌いな相手は元より、好きな相手でもしんどい。人数の多寡にかかわらずしんどい。常に疲れていて、心地よいと感じることが少ない(←これについては多汗症や不安障害という、私を支配する大きな要因がまた別にあるのですが、いや、問題の根幹は一緒かもしれませんが、おいおい書きます)。

苦しい財布(←人と接するのが苦しくて仕事が続かないので常に貧しいのです。おいおい書きます)から絞り出したお金で、藁にもすがる思いで心療内科やカウンセリングやヒーリングに通い、ベソベソと泣きながら話を聞いてもらい、プロの距離感で寄り添ってもらうという、迷走する人が走る王道をきちんと走りました(あれはあれで必要でした。あのときのプロの皆さん、その節はたいへんお世話になりました)。

若いときは気力と体力にまかせて、このしんどさに蓋をすることができていたのか、単に年を取ると堪え性がなくなるタイプだったのか、人とのふれあいによって生まれる謎の疲弊がいよいよ増してきたこの数年で、ようやく「私、何か人といるときいつも違和感あるんですけど」と気づいたのでした。よくよく注意を向けてみると、私はどうやら人といると、心と違うことを常に自動的に言ってしまうようでした。「常に自動的に」です。自分でも驚きです。

さらに知らなかったことには、そうしているときには肩や腕の筋肉がこわばったり、無意識に奥歯をかみしめていたり、頭に血が上ったり、逆に血の気がひいたり、喉は乾くわ腹にガスは溜まるわで、筋肉、脂肪、神経、骨、その他大勢の細胞たちの総力戦で事に当たっているようでした。毎時この調子の同時多発。「常に自動的に」の任務を愚直なまでに実行する、多忙を極める現場です。

この多忙な仕事によって得られる成果は何か。望んでいるのは自分も相手も楽しい、満足感。なんだったら相手から好かれるという副産物。実際は居心地の悪さ、相手からの若干の気遣い、副産物としては「恥ずかしい」という気持ちがもれなく得られます。しかもこの副産物は簡単なシステムでつくることが可能なのか、原価も安いのか、「恥ずかしい」生産ラインだけメンテナンス不要で365日フル稼働し、少ない原材料からでも品質の変わらない「恥ずかしい」を大量生産することができます。優秀な工員と技術者がそろっているのでしょう。やがてはあれがうちの主力の製品になるはずです。

一方で、主力となってほしい動ける体と脳のラインは疲弊しきった現場の労働者からストを起こされて、不具合連発です。工場長が殺人的な受注表を突き付けて「これでも現場の細胞たちの力不足というのか!」と糾弾される社長の姿が目に浮かびます。私です。

どうやらこのような仕組み?で、私は人と触れ合ったあとは常に恥ずかしさと疲弊が心に充満し、何かの被害者であるかのようなみじめな気分になっていたようです。人といて、話すだけで、常に、自動的に、です。それは対人恐怖症にもなります。そうそう、そうなんです。私、対人恐怖症のトンネルのまっただなかにいて、もう長いこと経つのです。そのことはおいおい書きます。おいおい書かなければいけないことがたくさんありますね。

しかし、ここへきて人と話すとなぜか疲れる原因がようやくわかったので、父の真似をして、心にもないことはもう一切言わないことにしました。

すると職場で自ら誰かと話をすることはほとんどなくなった、そういう話。

我が事ながら「よかったじゃない、ねえ?」と言いたくなりそうですが、この話には続きがあって、しゃべらないことで心は守られるけど、今度は話す能力が著しく衰えて、本当に話したいことも話せなくなりました。話そうとすると頭が真っ白、考えていることが言葉にならずにしどろもどろで恥ずかしい。もう毎時毎分恥ずかしいのです。新規事業で新しい工場が立ち上がったのですが、その工場から産まれるの副産物もまた「恥ずかしい」なのです。なんなんだこれは。社長は何を考えているんだ。こうしてもはや必要なこともしゃべれない。もうこの際、ついでに挨拶もあんまりしない。これはおいおいではなくて今書きますが「おはようございます」の「ございます」を言うときになぜか恥ずかしくなって言いたくなくなるのです。挨拶したい気持ちはあるのですが、「ございます」の違和感がすごいのです。

もう20年くらい前になるでしょうか、テレビ番組の影響で「おっはー」という挨拶言葉が流行したことがありました。とても言いやすくて、私の朝の気分にもぴったりだったので、このまま日本よ、これを公用の挨拶に…!と思っていたのですが、思っていただけなので叶いませんでした。「あざーす」についても以下同文です。ただ「おっはー」を言うときの両掌を相手に見せる所作や「あざーす」を言う人が往々にして見せる顎を前に出す会釈みたいな所作はしたくなくて、あくまでも今している挨拶の所作と変わらず、相手に少し頭を下げながら静かに、しかしはっきりと「おっはー」「あざーす」と言いたいのです。…よそ見をしている間に着地点を見失ってしまいました。このままだと日が暮れていよいよ降りられなくなりそうですので、とりあえずここに降ります。またおいおい。









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