「ありがとう」の言葉に身体がついていきません。


親切にしてもらったりしたとき普通「ありがとう」と言います。
辞書には『感謝の気持を表す言葉。』とあります。
私もその意味は十分に承知しています。
しかしながら私は、どうも「ありがとう」を
身に付けられていないのではないかと思うのです。

それは発音や意味の問題ではありません。

私の「ありがとう」を聞いた同じ日本人にとっては、発音に何の違和感も無くまたその意味も問題無く通じていることでしょう。


厄介なのはいつだって、それを許さない私の「こころ」です。


それが何かと言いますと、「ありがたいな」という感情と「ありがとう」の言葉に断絶が生まれているような気がするところです。
つまり、自分ではぎこちない感じがすることなのです。

普通の人は、「ありがたい」感情から脊髄反射のように「ありがとう」を繰り出して来ます。それが良い「ありがとう」です。

しかし私はどうでしょう。
「ありがたい」感情を受け取ってから現実ではコンマ何秒レベルの長考が入ります。

こういうときの言葉はえーと、と考えながら
頭の中で「あ」「り」「が」「と」「う」を再組成して繰り出す。
限りなく事務的なありがとう。

つくね5個に「あ」「り」「が」「と」「う」の焼印を押し竹串を通し炭火で焼き卵黄を添えて差し出す。
限りなくやきとり的なありがとう。

そしてそれをそう聞こえないように自然に言えてるかのように装う。そしてたまに「サンキューね」とかも言います。「ありがとう」と何度も言ってたらおかしいからです。

このように発音が上手でも下手な「ありがとう」があるように発音が下手でも上手な「ありがとう」があります。

例えば、片言の拙い日本語で「アリガトウ」と言う外国の方が居ますよね。それをどう思われますか?
この人発音下手だなとは思いませんよね。むしろその拙さに温かみを感じませんか。
それがより「ありがとう」の良さに拍車をかけていませんか。

また、日本人の小さい子供の言う「ありがとう」も良いです。彼らもありがとうを言ってきた経験が少ないのに良いありがとうを言ってきます。
知らない人に対して半分怯えた目をしながらも「ありがとお」と一生懸命に言っているのです。


このように、意味を知っているとか流暢に言えるとかは本質とは全く違うことなのです。


逆に言えば、私のありがとうには本質だけがすっぱり抜け落ちています。一見普通に日本人が喋っているように聞こえても、よくよく耳を傾けてみると、私のそれはただ絵具を薄めた水色を綺麗に見えるように塗りたくったコピーアンドペーストの贋作で、それに比べて真(まこと)とは、不安定で不確定でありながらも美しい、空の青さのようなものです。


だから、上手な「ありがとう」を聞くたびに、私はそれに感動しまた同時に自分の三文芝居さに嫌気が差してくるのです。

感情と言葉の断絶。

だけれど感情と言葉は全てにおいて即座に繋げるべきものではないということを私は理解しています。
例えば私が道端でいきなり「排尿行為に勤しみたい!」と言ったらどう思われますか。
丁寧に言ったとしてもそれは駄目です。
それが尿意を感じた瞬間脊髄反射のように繰り出された言葉だと分かれば分かるほどに、怖くなるものなのです。

しかし「ありがとう」は違います。即座に繋げるべき言葉なのです。
即座に繋がっていれば繋がっているほど良さが出るのが「ありがとう」なのです。
そのほうがよりその人の人格が乗る言葉でありまた人格を乗せるべき言葉であるからです。

どちらかにすれば良いわけではないから困るのです。
そこを上手く切り分け出来ない私は常識的に尿意を即座に声明することはないけれど、そのかわり「ありがとう」の言葉に身体が着いていかない。

もうどうすれば良いか分かりません。


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