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くらやみの眸②

あらすじ

古い霊能者の家系に生まれた針間兄弟の弟・勇次郎とその幼なじみ、新浪龍樹はある日、師匠である纏からとある依頼を代わりに受けてほしいと頼まれる。それは、『奇妙な落とし物が連日届くという不気味な原因が続き、命を落とした友人の不可解な死の原因をつきとめたい』というもので……。

本文

 都立方南高校。首都圏でも下から数えた方が早いであろう偏差値の低い、俗にいう「教育困難校」の一つである。各地から様々な事情を抱えた子供達が通っているが、幼なじみは学力的には何も問題がなかったというのに受験期の土壇場になって志望校をいくつもランクダウンさせ、ここへ入学してしまった。
 当てつけのような進路変更にマジギレした彼の母、結が勘当同然で実家から追い出し、学校近くの単身者向けアパートへぶち込んでからそろそろ数ヶ月。もうじき夏休みだし、ちゃんと一人暮らしできているのか不安になって食料品を買い込みアポ無しで突撃訪問してみたものの、果たして本人は在宅なのか。一応メッセージアプリで家にいるか訊いてみたが未だ返信は来ていない。
 幼なじみ──勇次郎の自宅を訪ねるのは何しろ初めてのことなのだ。それまでは僕自身も高校生活に慣れるのに精一杯で、正直なところ勇次郎を構う余裕がなかった。そういえばアイツとしばらく顔を合わせてないなと気づいたのはつい最近のことだ。一度気づいてしまうといてもたってもいられず、次の土日に会いに行こうと決めたはいいが、久しぶりすぎて何を話せばいいものやら困り果て、こうして玄関先で立ち尽くしている次第である。
 やっぱり荷物だけ置いて帰ろうかな、とインターホンを押しかけた指を離して片手に下げていたスーパーのレジ袋を床に置こうとしたその瞬間、ガチャリとドアが開いて彼は姿を見せた。中学卒業以来、はじめて見る勇次郎はすっかり様変わりしていて、本当に本人なのか確証が持てなかったほどだ。
 寝癖だらけのボサボサの黒髪は肩にかかるくらい伸びていて、身長は見上げるほど高くなったが、急激な成長に筋肉が追いついてないのか線は細い。全体的にパーツの整った小綺麗な顔つきこそ変わらないが、どことなく輪郭がシャープになった気がする。着ているのは中学時代のジャージの半袖シャツとハーフパンツだが、眠そうな様子から見てまだ寝ていたらしい。悪いことをしてしまった。

「……上がれば。そんなとこでウロウロしてねえで。不審者と思われて通報されんぞ」
「えー? この顔で不審者扱いされちゃう?」
「不審者に不細工もイケメンも関係ないだろ。いいから入れよ。土産の礼に茶くらいならいれてやる」

 というので遠慮なく室内へ上がらせてもらい、買ってきた食料を冷蔵庫へ詰めていく。どうせ空っぽにしているだろうと思いきや、手作りと思しき常備菜や買い置きの惣菜などが綺麗に仕舞われていた。意外なほど彼の部屋は片付いており、手狭ながらもリビングには観葉植物など飾ってあったりする。壁掛けの大きなカレンダーには日々の予定が書き込まれているし、小さいがキッチンにもちゃんと使われた形跡があって、調味料や調理器具も一通り揃っている。こんなにまめまめしいやつだっただろうか。
 内心首を傾げつつリビングで待っていると、麦茶を入れたグラスを二つと菓子鉢を手にした勇次郎が向かい側に腰を下ろした。元々は誰も招くつもりはなかったのだろう、座卓は一つしかなかったのでありがたくそれを譲ってもらい、本人はそのままラグの上に胡座をかいている。冷房の効いたアパートの一室は理想的な涼しさで、茹だるような外の熱気とは大違いだ。菓子鉢の中にある一口サイズの和菓子頬張りつつ寛いでいると、勇次郎は何か言いたそうに口をぱくぱくさせている。

「あ。えーとね、おばさん……じゃなくて結さんからお前の様子を見に行ってくれないかって頼まれて。僕としても幼なじみが元気でやってるか気になってたし、いい機会だから遊びにきたんだ。急に悪いな」
「それは別にいい。お前がいきなり遊びに来んのはいつものことだし。そうじゃなくて、なんで結が今更? 追い出したのあのババアじゃねえか」
「さあ、でも心配なんでしょ。今までずっと一緒に暮らしてた家族なんだし。たまには帰省してあげれば? そろそろ夏休みなんだしさ」
「やだよ。……だってあいつと鉢合わせたくねえし」

 一体誰と鉢合わせたくないのかといえば、それは間違いなく彼の実兄──針間纏のことだろう。僕たちより十以上年が離れているお兄さんは、早いうちに独立してしまったので顔を合わせる機会はそんなに多くなかったんだけど、僕自身は何かと面倒を見てもらった記憶がある。彼は身内と認めた相手には態度が甘くなるタイプのようで、よく効く護符や身代わりアイテムなどを時々プレゼントしてもらった。おかげで幼少期から現在に至るまで、この力のせいで怖い目に遭った経験はほとんどない。
 一方で勇次郎はそんなお兄さんのことがめちゃくちゃ嫌いだ。憎んでいるといってもいいかもしれない。今はとても丈夫だし健康優良児だけど、小さい頃のこいつは重い病に罹り伏せっていることがとても多かった。実際はただの病気じゃなくて呪詛だったらしいけど、そのせいで子供の勇次郎が苦しんできたのは事実だ。でもお兄さんは修行に明け暮れていたのと、次から次へと舞い込む依頼で多忙のあまり弟についていてやれず、彼は寂しい思いをしてきたようだ。彼らのご両親もとても忙しい人で、家にいることは少なかったし。
 勇次郎はつい最近まで実家の稼業のことなんか何も知らなかったから、自分をほったらかして遊び歩いていた兄貴なんか嫌いだし許せないってな感じで、本当は放置したくて放置したわけじゃないも誤解が解けた今でも、お兄さんのことは好きになれないらしい。ていうかやっぱりまだ嫌いなままなんだろう。僕らがもっと幼い頃、呪詛で寝込むようになる前までは、針間兄弟の仲は悪くなかったし勇次郎は纏にすごく懐いていた。もう本人はそんなの忘れてしまったかもしれないけど、僕は今でも覚えている。どうせ教えたところで信じないだろうけど。
 勇次郎が進学先を突然変えたのも実はお兄さんの存在が大きく関わっている。あいつが本来志望していた学校は、国内最難関の大学でも合格者を毎年何人も輩出しているような、すごくレベルの高い高校だった。優等生だったので合格圏内だったし問題なく受かるだろうと周囲からは思われていたのに、勇次郎ときたら当日いきなり試験をドタキャンし滑り止めですらなかった都立方南高校の入試を受けてそのまま入学した。当然、ご両親も他の親族も中学の先生方も怒ったし責めたてたのだが、結局勇次郎の意思は変わらなかった。
 なんでそんな暴挙に出たのかといえば、受験予定だった学校のOBにお兄さんがいるとの情報が漏れてしまったせいだ。つまり先輩後輩の関係になりたくなくて、あいつはわざわざ偏差値ランキングで下から数えた方が早いような高校を選んだのである。奇しくも同じ高校を受験するつもりだったため、合格確実だったライバルであり幼なじみが降りたことで僕は志望校に受かった。本来の学力より背伸びしているので大変だが、三年しっかり通って勉強すれば難関大学を目指せる。
 この件で勇次郎の母、結さんはそれはもうマジギレしたらしい。当たり前だ。どうしてもやりたいことや目的があってならともかく、嫌いな兄への当てつけのためだけに意味もなく志望校を変えるなど、どんな親でも叱りつけるに決まっている。勇次郎も勇次郎で短気なやつなので母親と大喧嘩した挙句、勘当されたも同然に家出し、このアパートを見つけて引っ越した。なお、お父さんの紬さんが物件探しも手伝ってくれたし、卒業するまでの期間限定で保証人になってくれているというが。
 勇次郎が入学してから現在までに関しては、僕自身も新しい学校生活に馴染むまで時間がかかったから詳しいことは分からないけれど、どうやら相当荒れていたらしいと聞いている。噂だけど闇バイト紛いのことにまで首を突っ込んでいたとかなんとか。結局、そのせいで情報は全てお兄さんの耳に入り、それはそれは厳しい教育的指導が入ったことは想像に難くない。あの人は身内にとても甘いがその分厳しい。甘いけれども甘やかさない人だ。
 そして彼の母親、結さんも厳しい人だが情の深いひとでもある。身内が絡むとなおのこと。今回、僕が勇次郎のところへ遊びに行くことになったのは、彼に話した通り結さんから様子を見てきてほしいと頼まれたからだ。幼なじみが元気にしているか気になっていた僕としても、会う口実ができて助かったので内心とても感謝している。勇次郎には引っ越した旨までは連絡をもらっていたけど、具体的な住所までは教えてくれなかったから、こうしていつでも押しかけられるようになったのは喜ばしい。

「……それで、何の用だよ。お前もう学校ちげえし、オレとつるむこともこの先ないだろ」
「うん。実はね、お前と式神契約しようと思って。だって針間の秘密をもう勇次郎は知ってるだろ? 当然、僕の『体質』についても」

 口に含んだ麦茶を噴き出しそうになったのをギリギリで堪えた勇次郎は、目をまんまるに見開いた。ちょっと見ないうちにずいぶん大人っぽくなったなあとか思っていたけど、驚いた顔はまだまだガキっぽい。

「し、式神って……その辺の神霊とか妖怪ならわかるけど人間相手にそんなのできんのかよ。大体なんでそんな契約なんか」
「そんなの、お前に使ってもらいたいからに決まってるだろ。術師でもなんでもない僕にとっちゃ、無駄だし要らねえんだよ。こんな力なんか」

 霊力を過剰産出してしまう特異体質の人間というのが稀にいる。大抵は視える、聞こえる、感じるというところまでは可能だが祓いに関しては不可能であることが多く、僕もそのうちの一人だ。感知は比較的容易だが、直接干渉する技能である祓いは専門的に学んでも、どうしても向き不向きがある。素質の有無に強く左右されるため、こればかりは自分ではどうにもならない。
 霊力が豊富にあるというのは、それだけ怪異から餌として狙われるリスクが高いことを示す。僕自身、お兄さんに助けてもらうまでは何度か死にかけたことがあると親から聞いていた。物心つく前の話なのであんまり覚えちゃいないのだけど。とはいえ莫大な霊力のせいで護符やお守りを常に携帯していても、いつどこで怪異に出くわしたりするか分からない。しかも産出される霊力は年々強く、より多くなっているのだ。このままでは周囲に影響が出ないとも限らない。
 そこで針間夫妻に相談した結果、出てきたアイデアが『勇次郎に霊力の横流しをして、余分に産出された分を使い切ってもらう』というものだ。ただしこれには一つ難点がある。自力で消費できない霊力を他人に譲渡するには、お互いの魂を契約で縛る必要があるのだ。これに対し、彼ら霊能者は「パスを作る」という言い回しをよくする。パスというのは回路と言い換えてもいい。霊力の通る道、ルート、そんなようなものをつくって相手に霊力を差し出すわけだ。
 ただし普通にパスを作ったのでは、勇次郎の霊力をこちらも受け取ってしまう。あくまで双方向ではなく一方通行でなければならない。そのあえての不均衡な状態を形成、維持するために重要なのが「人間・新浪龍樹は霊能者・針間勇次郎の配下にくだる」という契約だ。上記のパスを作るための契約より難しいし、それに一度交わした契約はたとえ何があっても死ぬまで破棄できない。つまり一生僕は勇次郎の式神として生きていくことになる。元々、悪さする怪異を術師の麾下に置き、従属を強制させ逆らえなくするための契約なので仕方ないのだ。
 デメリット・メリット共に高い契約だが、現状他にどうしようもない。僕としては受けてもらわないと困る。それに勇次郎は結さん、お兄さんと違い霊力がさほど高くないと聞いている。感知に関しては一族トップクラスと云われるほどずば抜けているが、祓いに関してはパワー不足な点は否めない、というのがお兄さんの見立てだ。だから今までは事前調査、下見、定期的な監視などの比較的安全な仕事ばかりで、祓いの現場は任せてもらえないらしい。そんな勇次郎からしたらこの提案は渡りに船のはずだ。ハイリスクだがハイリターンでもある。
 しかし勇次郎は悩む素振りすら全くなく、はっきりと断った。

「ダメだ。お前の霊力なんて要らねえ。オレは自分一人でもなんとかしてみせる、でないと纏に勝てない」
「それは勝ち負けの問題なのかい。僕からしてみれば化け物に襲われて死にたかないし、勇次郎に余分な霊力を貰ってもらわないと困るんだけど」
「……そんなのっ、お前も術師になりゃいいだろ、オレなんかよりずっと才能あるじゃんか! オレがなんにも知らなかったときも、纏のやつに付きっきりで面倒見てもらってたんだろ!?」
「え? ああ、あれね。確かに自衛方法とかは時々コーチしてもらってたし、簡単な祓いもできるけど……僕としてはあんまり使いたくないんだよ。自力だとコントロール難しいからつい出力オーバーになりがちだし、そうするとデカい霊気の動きを見て余計に集まってくるし」
「だからって、なんでオレが」

 ぶすくれた顔で唇を尖らせる勇次郎は、よっぽど僕の霊力に頼りたくないらしい。というかシンプルに気に食わないだけだろう。お兄さんと僕の間に、自分の知らないうちに関わりがあったということが。兄が自分じゃなくて他人の子供ばかり構っていることも、幼なじみが自分じゃなくて兄へ助けを求めたことも、勇次郎の苛立ちの原因は両方なんだろう。
 たぶん勇次郎本人はもう忘れてしまっているかもしれないけど、まだ彼ら兄弟の仲が本格的に拗れる前は、それはもうご近所から仲良し兄弟として知られていたくらい、ちっこい頃の勇次郎はお兄さんに懐いていた。どこへ行くにも何をするのも常に一緒、服や食べ物も兄と同じじゃなきゃ嫌だとワガママしまくっていたのも、未だに懐かしく思い出せる。本人の中ではもう黒歴史と化していそうだが。
 何かとお兄さんに対して嫌悪感いっぱいの物言いや態度を滲ませる勇次郎だけど、たぶん本気で嫌いになったわけではない気がする。嫌いというのは意識しているということだ。どうしても頭の中からその存在を追い出せないってことだろう。あいつはたぶん死ぬまで、否、死んでも針間纏というひとを脳みそから弾くことはできない。それだけ強く、激しい感情を向けてるっていうのは──いや、これ以上はやめておこう。薮蛇になるのも嫌だし。

「……僕はさ、勇次郎ならきっとできるって信じてるよ。その手伝いがしたいだけなんだ。ダメかな」
「だめ、じゃない……気持ちは嬉しい。でも危険なんだ。命のやり取りだってあるかもしれねえ。色々、嫌なもんを見る羽目にもなる。そういうの、嫌だろ。オレはお前にこんなん見せたくないし。危ない目にも遭わせたくない。それにこの仕事は、オレ達針間の役目だから」
「はあ? そんなの関係ないだろ。針間? 役目? 知るか。僕はな、気に食わねえんだよ、命賭けちゃってもいいくらい大事な幼なじみを独りで戦わせることが! そんなの嫌だ、一緒に戦わせてくれなきゃ、お前が僕の知らない間にどっかで野垂れ死ぬくらいなら、いっそ僕がこの手でトドメを刺してやる!」

 ──勇次郎が僕と纏へ独占欲を剥き出しにするように。僕にだって欲望も矜恃もあるんだ。お兄さんみたいに強くなれないけど、それでも護られるばっかりなんて嫌だ。こいつが僕を守りたいと思うのと同じくらい、僕だってこいつを守りたいと思うのは当然じゃないか。家族みたいに育ってきた存在をそう簡単になくしてたまるか。もし失うとしても僕の目の前でなければ。死に様をこの目に焼きつけられないなんて嫌だ。
 僕がずっとひとりぼっちで自分の体質と向き合い、お兄さんに手伝ってもらいながらも自衛手段をなんとか確立させてきたのは、全てたった一人の大切な人を巻き込みたくないためだった。なんにもわかんないで呑気に笑っていてほしかったから、あいつには。こっちの薄暗い世界なんて知らないで、どうか日向で生きてくれと願っていた。結局それは叶わない望みだったのだけど。
 僕に視えているものを勇次郎の目には映らない。僕に聞こえているものも、僕が感じ取るものも。彼の度の過ぎた感受性は、あまねくあらゆる人ならぬものを感知してしまう。だから普通の子供として生きてほしいと願った彼の家族は、ずっと勇次郎の見鬼を封じていた。けれど、おそらく彼の家族も僕も誰もいない場所で時間で「何か」は起きた。強固な封印を解いてしまうような。
 そして。だから。勇次郎は身の丈に合わない夢を見ようとしている。遥か先にある兄の背を追おうなどという、途方もなく無謀で無茶な道を往こうとしている。ならばその背中を後押ししてやるのが僕の役目だ。針間がこの地に生きる全ての人を人でないものから守り、その境界を分かつのが役目だというならば。ここに来るまで、何度となく勇次郎を諌めなくてはと考えていた。今も思い直してくれやしないものかと心の片隅で期待してしまっている。だけど彼が本気で術師を目指すなら、あえて蛮勇を止めることはしないだろう。
 ──なぜなら僕はずっと前から、こいつに命を捧げているのだから。

「……仕方ねえな。そういや、お前が一度決めたことを撤回させられたことないんだった。龍樹は昔っから頑固で強情で意地っ張りで……ほんと、苦労したっけ」
「それを言うなら勇次郎だって僕とおんなじくらい意地っ張りじゃないか。お兄さんと仲直り、まだできてないんだろ?」
「あいつのことはいーの! それより、マジでオレの式神になるつもりなのか。いいのか、死ぬまでだぞ。それに主のオレは一方的にお前との契約を破棄できるけど、龍樹は途中でやめたりできねえんだぞ。もしオレに何かあって先に死ぬようなことがあったら式神にも影響が及ぶかもしれない。それでもいいのか」
「しつこいなあ。何がリスクで何がメリットなのか詳しく教えてられてるよ。考える時間もたくさんもらった。もうこちとら覚悟は決まってんだ、踏ん切りつかないのはお前の方だろ、勇次郎」

 ごろんと床へ仰向けになると、顔面を両腕で覆ってうぐぐぐ、と呻き始めた勇次郎は、ややあって身を起こした。懊悩するパートはもう終えたらしい。さっきまでの情けない顔つきが嘘みたいに、覚悟の決まったいい顔をしていた。それこそが、僕のいっとう大好きな勇次郎だった。

「……わかった。やるぞ」
「うん。任せる」

 鬱陶しげに前髪をかきあげ、そして僕の両肩へそっと手を添え、ゆっくりと顔を近づけてくる。あえて目は閉じない。この瞬間を両の眼に焼きつけておきたいから。やがて静かに、唇は降りてきた。


◆◆◆


「……ってことがあったってワケです。だから別に付き合ってるとかじゃないですよ、師匠」
「その師匠って呼び方ほんとやめろ……頼むから前みたくお兄さんって呼んでくれよ」
「嫌ですよ。だって纏さんは師匠じゃん。僕の感知が完全に目覚める前から簡単な祓いとか浄めとかレクチャーしてくれたじゃないですか。それにほら、このお守りだって師匠が手ずから作ってプレゼントしてくれたんだし」
「いやまあ師匠っちゃ師匠なのかもしれねえが、私は弟子は取らない主義なんだよ! でないと弟子志望とかいうよく知らねえ馬の骨が次から次へと湧いてきやがる!」

 長いこと顔を合わせていなかったというのに急にお兄さんから呼び出しを受け、しょうがなく彼の自宅へ向かうと待ち受けていたのは尋問紛いの質問攻めだった。相変わらず彼の部屋は散らかっていて、そのくせ生活感がまるでない。自室というより仕事部屋っていった方がいいかもしれない。本当にごはんとかどうしてるんだろう、と毎回気になるけど聞くのが怖くて結局訊けていない。
 いつ仕事の依頼が来てもいいように(それと弔問の予定が入ってもいいように)普段は黒のスーツ姿だけど、今日のお兄さんは珍しく私服だった。だぼっとした前開きのパーカーにシャツとパンツという、ただでさえ若く見えるのに尚更若見えするような格好で、実年齢はそろそろ三十路だというのにどう見ても大学生か、へたすると高校生くらいに見えてしまう。普段はポニーテールにしている銀髪もおろしているものだから余計に。
 ぎゃんぎゃんと子供みたいに喚く様子は自分よりだいぶ年上の大人のひとには思えないけど、こんなナリでも一応彼は現代の術師・霊能者と呼ばれる連中のなかでもトップクラスの実力を持つ。昔から行われるオーソドックスな祓いというのは、人でないものと相対し交渉に臨むことであり、怪異といかに話を通じ合わせられるかに腕の善し悪しが関わってくる。
 でもお兄さんは一般的な祓いを行わない。もちろんそれだって完璧に執り行ってみせるけど、彼の真骨頂は調伏にこそある。言う事を聞かない駄々っ子を拳で黙らせ、迷惑を被っている対象から強制的に立ち退かせる──という荒っぽい手段を好む。だがそれは、通常の祓除ではどうにもならない「針間纏でなければ解決できない」案件を引き受けているからだ。彼は人と人でないものの間にある境界線を守る、まさに最後の砦といえる。
 だからお兄さんは絶対に依頼を断らないのだ。その代わり、お兄さんの元には普通のお祓いでどうにかなるような案件は滅多にこない。依頼を出す方が針間纏へ辿り着かないようになっていて、軽いものなら必ずそれに見合った能力のある術師に案内されるようになっている。別にお兄さんがそう仕組んでいるわけではなく、星のめぐりや天の導きといったものが関係しているようだ。
 そんな彼と幼いうちに出会えた僕はきっと僥倖だった。もしお兄さんがいなかったら、もっとずっと前に死んでいただろう。それも誰もが目を背けたくなるような、酷く惨たらしい有様で。人ならぬものに目をつけられ、魅入られたものは善い死に方をしない。誘蛾灯のように絶えず暗がりに潜むもの達を惹き付ける、僕のような人間は。そしてそれは、やつらと日々対峙する彼らのような存在も。

「……ほんとに付き合ってる、わけじゃないんだな」
「まあ、今のところは」
「今のところは!? ってことはいずれそうなるかもしれないってことか! おい!」
「勇次郎の方はどうだか知らないけど、僕は別に……あいつと付き合うことになっても、まあいいっかなって……って何言わすんですか! もう!」
「いや勝手にペラペラ喋ったのそっちじゃん。そんな……アイツには可愛い嫁さん見つけて子供は最低三人できれば五人いておっきな庭のある家で白い犬を飼うような生活を送ってほしかったのに……」
「いやさすがに気持ち悪い。いつの時代の家庭像? いくらなんでも弟に対して夢、見すぎ」
「だってぇ!! 私じゃ絶対できねえことなんだもん! あいつには叶えてほしかったもん!」
「嘘こけ。仮にフツーの家にフツーの人間として生まれたところでそんな人生歩むタマじゃないだろ、あんたは」
「うう、愛弟子が年々可愛くなくなる……助けて勇次郎……しまった、あいつも可愛くないんだった。で、そろそろ話を戻すぞ。本当にあいつの番になる気か? 式神契約はメリットばかりじゃないし、それ以前に人間同士のケースは前例にないから何が起きてもおかしくない。縛りが死後、来世にまで引き継がれる可能性だってある。お前が将来、仮に他の誰かと交際したり結婚したくなったとしても、勇次郎の存在は生涯付きまとう。それら諸々のリスクを覚悟して臨んだんだな?」

 日本人離れした色素の薄い瞳がまっすぐに僕を射抜く。針間纏というひとが、どんなに身内に甘く、またどれほど心を砕いてくれる人間なのか、それだけでわかるようだった。だから、彼の気持ちに応えるように。深く頷くと、お兄さんはちいさく嘆息して、しょうがないなと言うように苦笑した。

「……まったく誰に似たんだか。本当に強情なやつだよ、お前は。昔っからちっとも言う事を聞かせられた試しがない。ま、もう契約を結んだあとなら私が言えることは何もねえ。存分にあいつの力になってやりな」
「言われなくても。だってそのために、僕の方から話を持ちかけたんですから。ところで話は終わりですか? でしたら帰りますけど」
「まあ待て。今日、お前を呼び出したのは他でもない、仕事の話をするためだ。勇次郎との縛りの件はあくまで前座だよ。いいアイスブレイクになったろ」
「むしろ空気凍った気がしたんですけど!? 嫁の家族に結婚報告しに来た旦那の気持ちだよ! って仕事の話ですか。僕らに?」
「おう。お前ら、というか借りたいのは勇次郎の見鬼だな。今抱えてる案件がちいとばかし厄介でな、奴さんときたらなかなかしっぽを出さねえんだよ。私は索敵とか感知に関しちゃそこまで強くねえからな……あのバカをレーダー兼釣り餌にでも使おうかと」

 大量の分厚いファイルやらクリップで雑に留めただけの書類の束やら和綴じの古文書やら、ありとあらゆる紙類が山のように積み重なっているデスクを漁り、お兄さんが引っ張り出してきたのは依頼主が書いたと思しき日記をコピーしたものだった。今どきSNSやブログとかではない手書きの日記なんて珍しいなと思っていると、読んでいいとの許可が出たので、さっそく目を通してみる。


(前略)
 ……半年前、いや、おそらくもっと前から、いつも何かに見られているような気がする。それに気づいたのは、いつも仕事を終え帰宅すると玄関先に何かが落ちていることが頻繁に起きたからだった。最初は落とし物かな、と思って警察に届けたりもしたのだけど、持ち主も現れてないのに遺失物が忽然と消えてしまい、拾った人間であるわたしに連絡がくる、というのが頻発して以降、放置するようになった。
 落とし物は実に様々だ。季節外れのアゲハ蝶の羽がいくつも落ちていることもあれば、失くしたと思っていたハンカチだったりもするし、学生時代に友達と交換したノートの切れ端を折った手紙の時はふいに懐かしみを覚えた。そう、なぜかわたしは、わたししか持っていないものやとつっくの昔に捨てたはずのものが置かれることに、しばらく疑問をいだかずにいたのだ。
 そのうち、他の知らない誰かの持ち物がまるでお供えでもしているみたいに玄関先に飾られていることも起きるようになった。さすがにそれはそのままにはできず、持ち主を個人的に調べて返そうとしたのだが、すぐに断念してしまった。その手の落とし物は大抵持ち主がわかるような特徴がある場合がほとんどだったのだけど、特定できた落とし主というのが例外なく全員、既に亡くなっていたからである。それも何ヶ月、あるいは何年も前に。
 当初はこの事実を知っても相手の遺族に連絡を取って返却しようとしたが、紛失に気づいた遺族がなぜかわたしを盗人と誤解したり、あるいは故人にそもそも遺族などいなかったりして、やはり諦めざるを得なかった。無事に受け取ってもらえた場合も、再びなくなってしまったと聞かされ急いで確認すると、その品はわたしの玄関先にまたも置かれていた、というケースが相次いだ。
 そんなこんなで不本意にもコレクションせざるを得なくなった物品達は全て、それぞれケースなどに収めて保管しなくてはならなくなっている。これが意外と収納スペースを圧迫していて、ちょっと困りものだ。処分できそうなものはゴミとして出したりもしたのだけど、寸分違わず全く同じものが繰り返し玄関先へ戻ってくるようになったので捨てるのも諦めてしまった。
 奇怪で奇妙な異常現象としてこの半年あまりの出来事を捉えていたのだけど、何かの折にこの件を珍妙で愉快なエピソードとして知り合いへ披露してやったとき、それは笑いながら話せるような面白おかしい話題ではない、と忠告を受けるに至った。冗談や笑い事ではなく、命に関わるかもしれないと。考えすぎだろう、とその場では軽く流してしまったのだけど──今でも後悔している。
 あの時からずっとわたしは何者かに「見られている」と感じている。どこか遠くから、それともとても近くから、眺めているような、あるいは覗き込んでいるかのような、そのどちらともつかない視線が向いている……ような気がする。曖昧な物言いになってしまうのは、大概その視線のような何かが飛んでくるときというのが、周りに誰もいない完全に一人の状態に限られているからだ。深夜の道端、客のいない無人販売店、トイレの個室で用を足しているとき、エトセトラ。
 見られている。誰かが見ている。いつも、常に、どこかから。それは見知らぬ落とし物が玄関先にあるよりもよほど精神を削り、心胆を寒からしめるものだった。月並みな表現だがとにかく怖いのだ。わたしが人目を引くような美人美形であるとか、何かしらわかりやすい注目を集める要因を持っているならともかく、別にわたしは綺麗でも格好よくも可愛くもない。ただの社会人だ。なのに人知れず、誰もいないのに見られているのだ。
 ……近頃、落とし物というよりもはやお供え物に近い「それ」の種類が変わってきた。未開封の缶ジュース、パッケージの色が褪せたお菓子の箱、花びらがところどころ茶色く枯れ始めた花束、知らない人の名前が真ん中に書かれた寄せ書きの色紙。火のついたままの、まだ置いて間もないとわかる線香のときは火事になるのではと危ぶまれ、尚更肝が冷えた。
 次は何がくるのだろう。そして、わたしは一体、どうなってしまうのだろう。


 日記のコピーはそこで終わっていた。追記や、翌日以降の記載があることを期待したが、お兄さんはそれが最後の日付であると教えてくれた。これ以前の記述は至って普通で、特に何かおかしなことがあったわけではないらしい。つまり半年もの間妙な現象が起き続けていたのに、ずっとそれが「妙である」と違和感すら覚えなかったのだ。この日記の主は。
 だが怪奇現象を怪奇現象と認識せざるを得ない決定的な出来事が起きた。件の「知り合い」の存在だ。面白おかしいエピソードとして話して聞かせてやった気でいたのに、外部の視点からそれが「おかしい」ことだと理解させられて、ようやく書いた人間は落とし物が続くことに疑問を持つようになった。
 しかし問題は起きた。「視線」だ。推測するに、これは何者かによる牽制ないしは警告なのだろう。絶えず注視し相手にわかるよう視線を浴びせかけることで、これ以上首を突っ込むのを抑制しようとしたのかもしれない。なぜなら、日記の主が次に取る行動として予想できるのは、一体どこの「誰」が落とし主なのかを突き止めようとすることだからだ。
 相手は何か目的があって、毎日のように玄関先へ物を置くようになった。おそらくは何を置くかにも意味や意図がこめられているはずだ。次第に内容が、日記の人も書いているように「お供え物」っぽく変化してきているのがその証である。けれど一方で「誰が」「なんのために」それらを置いているかは知られてほしくないのだ、そいつは。どうして知られたくないのか。それは。

「……なんか、何かの呪いみたいですね。具体的にどういう呪詛を元ネタになっていて、どんな風にアレンジしてるかまでは分からないですけど」
「まあ何かしらの儀式っぽいよな。思うに、これはオリジナルなんじゃないか? 低年齢向けのおまじない本とか民俗学あたりの専門書で紹介されるような、メジャーなやつじゃない。でも特定地域や民族で信仰を受けるるような土着宗教由来ってワケでもない。ただ、強烈な悪意は感じられる。特にここ」

 日記の冒頭にある『学生時代に友達と交換したノートの切れ端を折った手紙の時はふいに懐かしみを覚えた』を示し、お兄さんはトントンと指で叩いた。「ノートの切れ端を折った手紙」というのは僕にも馴染みがある。よく授業中に友達とこっそり手紙(中身は放課後に遊ぼうとか他愛もないメッセージだ)を回したりしたものだ。
 とはいえ、ああいうのは役目を終えたら捨てるか、好きな子からのものだったらペンケースの中や適当なファイルに突っ込んでしばらく保存することはあったけど──掃除や片付けのタイミングで処分するようなものであって間違っても誰かにあげたりするものじゃない。第三者の手に渡るはずがないものが、なぜ「落とし物」として、しかも自宅の玄関先になど。
 彼もしくは彼女は、しかも当初そのとてつもなく異常な状況を異常だと全く意識できず、あまつさえ郷愁すら覚えている。自分のプライベートが強引にこじ開けられているにも等しいのに、まるでその手紙を送ってきた相手と親しくやり取りしているみたいに──まさか。

「これ、もしかして人間ですか。正体は。コピーを読んでいても強烈な違和感や不安は感じるのに、霊的な感受性の方はさっぱりだったから、不思議には思ってたんですけど……」
「さあな。私は遠隔での感知はできねえからなんとも言えん。お前は私より視える。勇次郎はそんなお前より更によく視える眼の持ち主だ。だからあいつの見鬼を借りなきゃならねえ」
「でも日記のひとは残念ながら……なんですよね」
「死んではいない。日記がこれ以降更新されないのは、ペンを持てないからだ。原因不明の意識不明で入院中、だそうだ。依頼主が云うには」
「ってことは別な誰かが師匠に依頼を? この、落とし物の話を直接聞いた知り合いっていうひとですか。状況からしてこの方以外の人間は師匠へレスキューなんてしませんもんね。それにしても、よく普通の人間が『針間纏』を見つけられたもんだなあ」

 前述の通り、針間纏という術師は「最終手段でしか解決できない」案件を一手に引き受けている以上、来た依頼を決して断ることができない。しかし多忙なので彼が担える案件の数には限界がある。そのため、針間纏が出張るまでもないような仕事は、そもそも彼の元へ依頼されないようどこかでプロテクトがかかる。それが霊的な方法を用いたものなのか、それとも彼に協力している者が仕分け等をしているからなのかは不明だが。
 要するに同じ業界人、お兄さんと同じ術師や霊能者が主な顧客となる。自力では対処できない、解決が難しいと判断した場合、どこへ案件を持ち込むか。その行先が針間纏ってわけだ。もちろん複数人で合同チームを組み依頼に当たることもなくはない。だが術師は大概、継承している技術系統がバラバラだ。仏教、神道、キリスト、イスラムなどの信仰や宗派でも変わるし、家独自の方法とか土着の神にまつわるものなど挙げればキリがない。
 結局、噛み合わない技術ツリーを無視してチームを編成してまで対応するより、対処可能な人間に任せる方が手っ取り早いし確実だ。千年前と違い、呪術師と呪術が自治体や国から公式に認められる存在ではない現在、まだ見ぬ怪異の脅威に備えて、汎用性のある術を学べる教育施設を作って術師を養成するというのは、かかるコストや需要を鑑みても現実的ではない。才能や素質のある人間を弟子として直接育成する方がまだ合理的だ。
 とかくこの世は生きにくくなった。それは、怪異にとっても人にとっても変わらない。いずれは淘汰圧に負け、滅びていく。視える人も視えぬものも。

「……私の顧客の中には、一般人も数多い。別に同業者に限って受けているわけじゃない。正規の手段で来た依頼はそれがなんであろうと引き受けるさ。それが私という名の防波堤の──最終処分場の仕事だからな」

 最終処分場。あるいは、ラストリゾート。
 針間纏が背負う、もうひとつの名前。勇次郎はこれを知っているのだろうか。あの可愛くない、素直でもない、ひねくれ者のこまっしゃくれた弟は。年の離れた兄へとついた、皮肉と畏怖からくるその異名を。

「湿っぽい話はここまでにして、それで手伝いを頼まれてくれるか。むろん謝礼は出す」
「僕は構いませんけど、あいつが受けてくれるかは……一応頼んでみますが」
「それでもいい。あのバカにとっても名を売るせっかくのチャンスなんだから、なんとか呑ませてくれれば」
「あんた……本ッ当、わかりにくいですね。あんだけ勇次郎のやつが術師になるの嫌がってたくせに、仕事の手伝いさせてやるなんて。タダで広告塔になってやるようなもんじゃないですか」
「さてな。本腰入れてやるって決めたんなら、応援してやるのも兄の務めだろう。怖気付いて諦めてくれるならそれも僥倖。私にとっては何も損がないからな」
「やれやれ。出来のいい兄を持ったあいつは大変だなあ。慰める役の僕も大変だけどさ。それで、その依頼人っていうのは──」


◆◆◆


 後日。なんとか言いくるめ、いや説き伏せることに成功した勇次郎と僕は、詳しい話を伺うために依頼を出したというひとのところへ赴いていた。お兄さん本人は他にも仕事が立て込んでいて、いちいちヒアリングしている暇がない。彼はいつも複数の依頼を抱えているので、昔から僕のような協力者が代わりに雑務を任されている。
 勇次郎は勇次郎でなんで使いっ走りなんかさせられなくちゃならないんだとギャンギャン吠えたが、そこは華麗に無視だ、無視。いちいち噛みついてくるこいつに優しく言い聞かせてやったんじゃ、時間なんかいくらあっても足りやしない。指定されたのはとある高級住宅街にあるチェーンのカフェだった。
 平日の浅い夕方ということもあり、店内はほどほどの混みようで、各テーブルにいるのもお茶がてらテスト勉強しにきた学生グループや商談中らしいスーツの二人組ばかりである。学ランの夏服の勇次郎とブレザーの夏服姿の僕という組み合わせは悪目立ちすることもなく風景に埋没している。僕らは傍からどう見えているのだろう、仲のいい友人同士か、あるいは。
 夏を目前にした夕景はまだまだ赤くて明るくて、窓際の席を選んだためか外の様子がよくわかる。この辺りは繁華街からもずいぶん遠い、瀟洒な戸建ての家々が立ち並ぶ綺麗な街だ。行き交う人々の身なりも小綺麗で、間違ってもピアスやタトゥーだらけの人間なんていない。恵まれた人達が住む、恵まれた街。……硝子に反射した自分の顔は、ひどく陰鬱そうだった。

「申し訳ありません、お待たせしてしまって。ちょうど通勤ラッシュだったものですから、運悪く巻き込まれてしまって……俺は雪屋といいます。あの日記の持ち主──霜野の友人です。今回は依頼を受けてくださり、ありがとうございます。……あの、針間さんは」
「彼は忙しい方なので今日は僕らが代わりに。こいつはあいつの弟で勇次郎、僕は新浪といいます。まさか学生がくると思わなくてびっくりしたかと思いますが、こうみえて腕は確かなのでご安心ください」
「は、はあ……」

 困惑した顔の男は、急いでここへ来たのかセットされた髪が少し乱れていたが、吊るしじゃないきちんとしたスーツを着こなした若い男性だった。二十代半ばか、まだ前半だろう。僕らよりは年上だが、世間ではまだまだ若造扱いされる歳だ。眉もきれいに整えられているし、手にしている鞄も使い込まれてはいるが手入れが行き届いている。なるほど、これがエリートサラリーマンってやつか。
 雪屋と名乗った男は適当に三人分のドリンクを注文する。ややあって運ばれてきたアイスコーヒーがそれぞれ行き渡ったところで、青年は話を切り出した。

「彼女……霜野とは長い付き合いなんですが、あるとき玄関先に変なものがよく置かれるようになった、と楽しそうに話してくれましてね。詳しく聞けば、半年近く前からほぼ毎日のように色んなものが『落とし物』として玄関のドアの前に放置してあるって……しかもそれを不安がるでもなく平然と話すので、気でも狂ったのかと思って変じゃないかって指摘したら、今度はどこかから常に見張られている気がするって怯えるようになって……その後、間もなく彼女は命を絶ちました。ついこの前のことです」

 彼はスーツの内ポケットから一枚の写真を取り出してテーブルの上に滑らせた。若い女性の胸元から上を撮ったショットで、いうまでもなく話に出てきた霜野という人を写したものだと見てとれる。雪屋さんとは同じくらいだろうか。とりたてて美人というわけではないが、穏やかそうな顔つきの、優しげな目をしたひとだった。
 わざわざアナログ写真を持ち歩いているなんてスマートフォンが普及したこの時代に珍しいなと思っていると、照れくさそうに彼は、以前に頼み込んで一枚だけという約束で撮らせてもらったものだと言った。亡くなられた霜野さんは大の写真嫌いで、あまり写りたがらなかったらしい。逆に雪屋さんの趣味がカメラだったので、しょうがなしに被写体になってくれたのだそうだ。
 だが、そのバストショットは遺影になってしまった。撮影したのは亡くなる一年前だったという。彼女の自宅にも実家にも、最近の霜野さんを写したものはほとんどなく、あるのは幼少期のものだけだったため、最新の写真──雪屋さんの撮った彼女が遺影として使われた。以来、彼はもう何も撮っていないという。それは仕事で必要な場合を除き、スマートフォンでさえも。

「あのとき、俺がもっと親身に彼女に寄り添ってやれていたら、あんなことにはならなかったんじゃないか、って毎日のように思います。いえ、思わない日などありません。死んでほしくなかった。死ぬ前にせめて相談してほしかった。俺が無力じゃなかったら、あいつはまだ生きてくれていたんでしょうか」
「……それについてはわかりません。ですが、謎を解くことはできるかもしれません。これ以上の犠牲を増やさないために。もしそれが人じゃない何かが原因で起きた、事件ではなく事象だったとしたら、の話ですが」
「そうですよね。つまらないことを話してしまいました。依頼に関してですが、針間さん、いえお兄さんの方ですが──彼にお話した通り、当面の目的としては彼女がなぜ死に追いやられたのか、それを明らかにしてほしいというものです。それが人間の手によるものなら、証拠を集めて法に則って解決できます。ですが、もしも仮に人為的なものではない『なにか』のせいだったとしたら」
「そのときは依頼内容が『対応と対策』へ切り替わる……ってことですよね。承知しました。師匠、纏さんにお伝えしておきます。思い出すのもつらいかもしれませんが、他に何か手がかりになりそうなことがあったら教えてほしいのですが」

 こういう打ち合わせや交渉ごとには不得手で会話があまり上手くない勇次郎にはひとまず話が落ち着くまで黙っているように予め言っておいてある。髪を黒染めしたことで前ほど不良っぽさは感じないが、それでもガラの悪さが消えてなくなったわけではない。口調も荒っぽいため、誤解されて依頼人と変に揉めたり拗れても困る。勇次郎が何かやらかせば、その煽りを食らうのはお兄さんだ。
 そういうわけで言いつけ通り大人しくしてくれているが、ずいぶん静かだなとチラッと見やると、なんとこいつときたらうつらうつらと舟をこいでいやがった。慌てて肘で小突いて起こし、無言でグラスに汗をかいているアイスコーヒーを指さす。バツの悪そうな顔で黙したままストローで中身を啜る勇次郎をよそに、一連のやり取りを微笑ましげに見つめていた雪屋さんが話を続けた。

「ヒントになりそうな情報ですか。そういえば彼女の日記には記載がないのですが、当時霜野が住んでいたのはこの近くにあるマンションなんです。窓から見えますか? 八階建てで、最上階はメゾネットタイプのマンションなんですけど」
「えーと……あ、ありました。外壁が赤レンガっぽいやつですか?」
「そうです、それです。だからこのカフェを待ち合わせ場所に指定させてもらったんです」
「なるほど……あれ、でもこのマンション、エントランス部分ってもしかしてオートロックになっていませんか? ここから見えている限りですが」
「その通りです。だから『おかしい』んですよ、置き配を頼んだわけでもないのに、玄関にモノが置かれている、なんて」

 日記にある「玄関先」が仮にエントランスだとしたら他の住人も落とし物の存在に気づいていることになるし、管理人へまず先に報告がいくだろう。毎回霜野さんが回収できるはずがない。そもそもマンションのエントランス部分はオートロックになっていて、住人や宅配などの業者以外は通れない。宅配などの届けものとも考えにくい。だったら送り主について日記に記しているはずだ。ならば、あれらのものは全て包装も何もされず、剥き出しの状態で玄関扉の前にあったのだ。
 では住人の誰かが嫌がらせで置いたのか。それもおかしな話だろう。嫌がらせ目的だとしたら、さすがに分かりやすすぎるし遠まわしすぎる。住人の仕業だとしたら霜野さんがすぐにそうだと見抜けてしまう上に、ただ様々な物品が置きっぱなしになっているだけなので、嫌がらせだという意図を感じづらい。伝わらない悪意を形にして差し向ける意味はない。やはりこれは僕らの領分なのだ。

「……なあ、あのマンションってオレらでも入れたりすんの?」
「住人でも業者でもない外部の人間を入れてくれるわけないじゃん。そもそも霜野さんはもう亡くなっていて、マンションの部屋だってとっくに引き払われているだろ。もしかしたら新しく入居してきた人だっているかも」
「それもそっか。現場、視れたら何か分かりそうな気がすんのに。こっからじゃ遠くてあんまちゃんと視えねえや」
「……あの、彼は」
「勇次郎は目がいいんです。物理的な話じゃないですよ。この業界でも稀な、とてもよく視える眼を持っているんです。感知に関しては、こいつの右に出るものは……まあそんなにいないんじゃないですかね」
「そうなんですね。さすが、針間さんの弟さんだ」
「すみません。その話、できればもうしないでやってくれますか。こいつ、お兄さんと比べられるの、あんまり好きじゃないんですよ。あとで宥めるの、苦労しそうなので」
「そっか。すまないね、変に比較するようなことをつい言ってしまって」
「別に……兄貴を引き合いに出されんの、昔っからのことだから。なあ龍樹、ほんとにあん中入れねえのか。管理人だかなんだかに掛け合ってみるのもダメか」

 しきりにマンションの方へと目を向け、何か見えないものかと悪戦苦闘している様子の勇次郎だが、いかなずば抜けた見鬼とはいえこの距離からでは感知するのは難しいだろう。やはり現場に行ってみるしかないが、高校生二人と社会人の組み合わせで管理人に快く入室を許可してくれるものなのだろうか。

「ダメ元で頼んでみますよ。俺はあのマンションには霜野に会いにしょっちゅう出入りしていて、管理人とは顔なじみなんです。居室に入らず、あくまで廊下部分を行き来するだけなら、もしかしたらOKしてくれるかも」

 最初は部外者を内部へ入れることに難色を示していた管理人だったが、雪屋さんが必死に頼み込むのを見て折れてくれたらしく、短時間だけならという条件付きで僕らも含めて三人での立ち入りが許可された。既に時刻は夕を過ぎているため、帰宅する住人と鉢合わせないよう手短に済ませるしかない。
 マンション共用部である廊下には等間隔で玄関ドアが並んでおり、見た感じ全ての部屋が埋まっているようだ。霜野さんが亡くなってからそんなに日が経っていないが、彼女が暮らしていた居室にも既に新しい入居者が決まっているようで、八〇三号室の玄関扉には別な表札が掲示してあった。ぱっと見た感じ、今のところ嫌なものは視えない。チラリと勇次郎の方を見やると、彼も何も感知できていないのか首を傾げていた。
 これ以上うろついていても収穫はなさそうだし、住人に怪しまれるのも得策ではないのでさっさと一階に降り、管理人にお礼を述べてからマンションを出た。七月の空はもうすっかり暮れなずんで、夕闇に染まっている。表通りにも灯りが入り、仕事帰りの会社員や帰宅途中の学生で街は一気に賑わしくなる。
 大して収穫がなかったことを謝罪し、顔を合わせたときと比べてすっかり意気消沈した様子の雪屋さんとは最寄り駅で解散した。

「……残念だったね。現場に行けば何か掴めるかと思ったんだけど……これじゃ師匠に報告できないよ」
「あそこにいなかった。もういなくなってた。『完遂した』から、用がなくなったんだ、きっと」
「どういうこと? お前には一体、何が視えてたんだ?」
「わかんねえ。うまく言葉にできねえんだよ……だから悪い、あとで話す。お前、このまま家帰んだろ? 送ってく」
「いいよ別に。送り迎えがいるような歳でもないし」
「それじゃ、オレの気がすまねえんだよ! せ、せっかく……相棒、なのに」

 あらぬ方向を見やって、仄かに赤くなった頬をポリポリとかいている勇次郎は、らしくもなく口ごもっていた。いつもはもっとハキハキ喋るやつなので照れているのは丸わかりだ。相棒とか幼なじみっていうより扱いがカノジョとか恋人へのそれに近いのは、無意識なのかそうでもないのか。果たしてどちらなんだろう。

「……じゃあ、せっかくだし送ってもらっちゃおうかな。久しぶりだね、勇次郎がうちに来るの」
「そうかもな。受験とか引越しとかでバタバタしてたし」

 ここからは電車を乗り継ぐ必要があるとはいえ、同じ都内なので、どうにか夕飯時には自宅へ着いた。僕と母さんの二人だけが暮らす新浪家がある場所は、勇次郎の実家である針間邸のある地区からは少し距離がある。繁華街の真ん中にある、古ぼけた小さなアパートだ。ここへ移り住んでからずいぶん経った。
 すぐ近くにはキャバクラやバー、スナックだらけの雑居ビルが立ち並ぶ区画で、今の時間から街は賑わい出してくる。そうなると治安も必然的に悪化するので、なるべく明るい時間帯に帰宅しなければならなかった。それゆえに勇次郎はわざわざ送ると言い出したのだろうが、もうお互い高校生になるのだから、さすがに心配しすぎだし、いくらなんでも過保護にも程がある。
 アパート二階の角部屋が僕ら家族の住む部屋で、母さんと僕がそれぞれ使う洋室が二つの他に、リビングと台所とシャワー室とトイレだけしかない。まるで御殿か御屋敷と見紛うような立派で豪華な針間さんちと比べると、実に狭苦しく質素な家である。だから勇次郎以外の誰も、この部屋に呼んだことはない。それはきっとこれからも。

「上がって。部屋で待っててくれる、たぶん何かしら食いもんはあると思うんだよね……」
「あのさ、久しぶりに台所借りてもいいか? おばさんの分も夕食用意しておこうかなって」
「別にいいのに……でもありがとね。母さんもお前の手料理ならきっと喜ぶよ」

 リビングとは名ばかりの、小さいキッチンの横にあるダイニングテーブルにはメモが置かれていて、今日も仕事で遅くなるので適当に夕食を済ませておくようにと走り書きされていた。それと千円札が一枚。日常のことなので今更気にしないが、黙ったまま眉間に皺を寄せている勇次郎はメモを一瞥したのち、台所に立った。

「冷蔵庫、中見てもいいか」
「いいけど……本当に作らなくてもいいんだよ? 下のコンビニでなんか適当に買ってくるし」
「ばか。そんなんじゃ栄養になんねーだろ。いいから今日くらい甘えとけ」
「……ずるいなあ。そんなんじゃ、いつか物足りなくなっちゃうじゃん」

 僕だって普段から親の代わりに家事をやっているし自炊スキルだって人並み以上にはあるはずだが、勇次郎は更に手際がよかった。前日に買い物へ行けなかったので冷蔵庫の中は大したものなどないのに、ささっとおかずを二、三品あっという間に作ってしまう。将来はいいお嫁さんになれそう、とからかってみるが、彼は何言ってんだとスルーし出来上がったものを食卓に並べた。
 きんぴらごぼう、梅酢でスライスした給料を和えたもの、死蔵していた魚の干物をほぐして即席で作ったふりかけ、白飯、それと味噌汁。ありもので作ったはずなのにちゃんと「食事」の体裁を成していて、日頃は隠れている彼の育ちの良さみたいなものが垣間見える。少なくとも僕も母さんも、こういうきちんとしたご飯というのは作らないし食べようとも思わない。
 夕食のメニューにしてはさっぱりしたものが多いのは、たぶん母さんが帰宅する時間帯が早朝になるからだ。朝食としてもちょうどいい献立というところにも、勇次郎のさりげない気遣いのうまさが感じられた。それぞれ向かい合うようにして食卓につき、いただきますの挨拶をしてから手早く平らげる。あんまり僕ががっつくので、欠食児童かよと勇次郎は苦笑いしていた。
 泊まっていくか一応聞いてみたが、明日は普通に授業があるので帰るつもりだ、とすげなく断られてしまった。今からだと彼の住むアパートに着く頃には巡回中の警察に補導されるかギリギリのタイミングなので、望み薄とわかりつつ引き留めてみるものの、どことなく恥ずかしそうにしながら勇次郎は家へ戻ると言って聞かなかった。そりゃあうちに客間なんてないし、僕の部屋も布団を余分に敷けるスペースはないから同じベッドで寝てもらうことにはなるけど、そんなに嫌がらなくてもいいのにな。

「嫌とかじゃなくて……その、わかるだろ。お前だってそろそろ、いいかげんに」
「え? 全然……だってちっちゃい頃から同じ布団で寝起きしてたこと普通にあったじゃん。僕、針間さんちで一時期お世話になってたし。そんとき、お前の部屋で一緒に暮らしてたろ」
「そりゃ小せえ頃の話だろーが! オレら、もう高校生だぞ。なあ本当にわかんねえのかよ。クソ、相変わらず鈍すぎ……」
「え。え、いや、だって。別に、僕ら、そんなんじゃないじゃん。全部、成り行きだし」
「……なりゆき、なんて、くだんねー理由でお前の命預かってるつもり、オレにはないから」

 ──あ、泣いてる。
 もちろん本当に涙を流してるわけじゃない。付き合いは長いけど、強情で意地っ張りでプライドの高いこいつが人前で泣いている姿なんか目にした記憶はない。だけど誰よりもお互いを知る幼なじみだから、こいつが涙をこぼさずに泣いていることくらい、よくわかる。人より色素の薄い猛禽のような目がしっとりと潤んで、水気を含んでゆらゆら揺れていた。今にも泣き出してしまいそうな、けれど必死に泣くのを堪えているような。
 食器を片付け、足早に玄関へ向かう彼の腕を引いて、慌てて止めた。虚をつかれた顔で振り向く勇次郎に対して、語る言葉を持たない僕はただ、はくはくと口を開いたり閉じたりするので精一杯だった。なんて声をかければいい、何を言えば彼は僕を見てくれる? その目に自分が映らないかもしれないと考えただけで、もらい泣きしてしまいそうになるこの感情の名前はなんだ。
 答えなら、とっくに出ているはずだろう。

「……あのさ、やっぱりここにいて。お前が出てったあとのうちは、寒くて、それがなんか……すごくイヤだから。ひ、ひとりに、すんなよ。僕の知らないとこなんかに、どっかに、行ったりなんか、しないでよ。あのとき言ったろ。お前、僕に。絶対置いてったり、しないって……一緒にいてくれる、って」

 洪水のように溢れてきた言葉は、言葉というには拙くてめちゃくちゃだった。夢中になってまくしたてながらも、つい目を伏せる僕の手を取って、まるで壊れ物でも扱うかのようにそっと彼は自身の手のひらに包んだ。

「お前って本当に素直じゃないし、わかりにくいしめんどくさいしワガママだし甘ったれだし」
「うっさいな、しょうがないじゃん。お前が甘やかしてばっかりだから、だからお前のせいなんだから。僕の甘ったれが直んないの。責任、取れよ、ばか」
「そうだな。オレのせいだな。悪かった、試すようなこと言って」
「……じゃあ今日は泊まってけよ」
「それとこれとは話が別。ちゃんと寝ろよ、夜更かしすんなよ。……日付、変わる前までなら通話付き合ってやるから」

 ぽんぽんとまるで子供にするみたいに優しく頭を撫でて、そして勇次郎は身を翻し、部屋を出ていった。中学校に入ってからしばらくして、あいつはあんまり家に来なくなった。しつこく何度も誘ってみても、そのうちの一回か二回くらいは顔を出してくれるけど、あんまり長居はしないし泊まっていったことなんかほとんどない。
 今日は久しぶりに遅い時間まで話せるんじゃないかと、昔みたいに二人っきりで過ごせるのではと内心期待していた。でも素っ気ないのは変わらなかった。あいつが優しいのも甘やかし上手なのも、お互いチビだった頃からずっと同じなのに、一方で線を引くように距離を離そうとしてくる。それがたまらなく嫌だった。どうして今までの距離感じゃ駄目なんだろうか、嫌いになってないならなんで線引きなんてするんだろうか。
 モヤつく気持ちをシャワーと一緒に洗い流して、寝支度を整えベッドに潜り込む。僕がふて寝ようとするのを狙ったようなタイミングで通知がきて、メッセージアプリを開くと一言、約束、と送られてきていた。あいつのことだからそれはもう全速力で急いで帰宅して、すぐに連絡してきたんだろう。ただそれだけで、その程度でつい嬉しくなって、にやけてしまって。幼なじみのことで一喜一憂している自分が馬鹿みたいだった。


◆◆◆


 翌日。電話連絡でお兄さんにコトの次第を伝えると、彼はしばらく黙りこくったのち、一言「泳がせるか」と呟いた。不吉な物言いにそれはどういう意味か訊ねると、お兄さんは事も無げにしれっと今まで亡くなった霜野さんのもとに届いていた「落とし物」を保管していると言った。

「は? なんで?」
「彼女の遺体の第一発見者が依頼人である雪屋氏だからだ。彼は霜野さんが亡くなっている現場を見つけて警察へ通報しているが、その際、遺留品の一部を警察に渡さずこっそり手元に残していた。それを私に寄越した、ってわけだ。ああ、安心するといい。雪屋氏に今のところ何かの兆候はない。たとえば玄関先に変なものが置かれている、みたいなことは」
「ってことは日記に書かれていたモノの現物がそのまま存在してるんですか!? じゃあ先にそれを見せてくれてもよかったじゃないですか……」
「びっくりしてもらいたくって。へへっ」
「へへっ、じゃないし……」
「一応、真面目な理由もあるんだぞ。私のような呪物の扱いに慣れてる手合いの者なら向こうも怖がったり諦めたりして何もしてこない。でも、呪物をそうと知らず適切な管理の仕方も分からず所持した人間に、あれらはどういう反応を示すかわからんからな」

 彼の言い分だとまるで呪物に意思があって生きているかのようだが、実際に生者へ正負関係なく何かしらの影響を及ぼすほどの力を持ったモノというのは、時にそれ自体にある種の生命が宿っていることも「ある」という。呪物によっては無作為に呪いを撒き散らす危険なものもあれば、呪いの発現にあたって特定の条件やトリガーが存在する場合もある。霜野さんの「落とし物」がどれに当たるかはまだ不明で、確認のためにひとまずお兄さんが一時的に預かっていたようだ。
 で、ここで「泳がせる」という言葉に戻る。呪物にどんな条件があるか、条件があるとしたらそれは何か、そもそも落とし物が呪物に値するのか、これらを確かめるために僕か、それとも勇次郎のどちらかが落とし物をしばらく手元に置いてみろというのだ。雪屋さんが持っていた間は特になんの問題もなかった。加えて、それにどういう由来や謂れがあるかも分かっていないが、あの「針間纏」に害をもたらすほどの力もおそらくは、ない。
 では霊力を過剰産出する特異体質の僕か、ずば抜けた感知力を持つ勇次郎のどちらかになら何か反応を示すかもしれない。もっとも、それが本当に呪物かそれに類するモノならばの話だが。強すぎる相手にはビビって何もしてこないなら、明らかに餌にしかみえない食いやすそうな人間にはその本性を現すのではないか、というのがお兄さんの考えだった。理屈はわかる、でも。

「……それで本当に、もしもあいつに、勇次郎に何かがあったら。何かが起きてからでは遅いんですよ」
「私は別にどちらでもいい。釣れるなら疑似餌はいちいち気にせん。好きにしろ」
「じゃあ僕がやります。見鬼だって狙われやすいけど、僕ほどじゃないでしょ」
「構わんが。もしお前に何かあったら、アイツが泣くぞ」
「大丈夫です。勇次郎はそんなヤワな男じゃないですから。僕がバケモンに食われる前に、自分がバケモンを食うようなやつです。あんたも知ってるでしょ」
「……やれやれ。色恋ってのは面倒だ。使えるから世話を焼いてやったのに、まさか飼い犬に手を噛まれるとは。ううん、元は私のもとに来た依頼だし……これ以上の干渉は得策ではないか……おい、やっぱりこの話は無しだ。あとはこちらでなんとかする」

 しばらく電話越しにブツブツとひとりごちていたかと思えば、急に彼は話を打ち切ろうとした。出先から掛けているのか、声に混じって外の喧騒も僅かに聞こえる。

「は? なんで?」
「事態が変わった。さっき連絡がきて……『彼』にも見えた、と。確定だ、アレは放置していいもんじゃねえ。こっから先は、私の──プロの領域だ」
「か、彼ってまさか……雪屋さんから? え、でも所持してた間は何事もなかったって、どうして急に」
「知らん! 知るかそんなもん、バケモン共の理屈やルールなんか! でも何かしらのトリガーは引いちまったんだろ……おい、お前には何か視えるか」

 焦燥を帯びた彼の質問に、慌ててアパートの外に出る。各部屋にあるドアポケットは空っぽのままだ。からりと晴れた午前の空は雲ひとつなくて、夏を前にした蒸し暑い空気が遠くの景色をかすませる。至って平和で長閑な光景に安堵しようとした瞬間、足元にこつんと「なにか」が当たった音がして、ふと下を向き──厭なものを見つけた。それは、ずっとずっと前に、こっそり校庭へ埋めたはずの、

「……ありました」
「そうか……何が、置いてあった?」
「あ、アルバムです……小学校ん、ときの、なんで、どうして、こんなとこに」

 ビンの蓋をおっことしたみたいに、次々と溢れてくる。嫌な、イヤな、厭な、いやな記憶が。洪水みたいに、噴き出して、こぼれて、満ちていく。伸びきった前髪から覗く異形と化け物に埋め尽くされた世界、掴まれた前髪を切られたこと、罵られ、馬鹿にされ、嘲笑され、投げつけられる悪罵と侮蔑、嘘つきだと指を指され、売女の子供と陰口を叩かれ、逃げるように町を出て、行き着いたここでようやく安寧を掴めるかと思った、はずなのに。過去は追いかけてくる。どこまでも。足を掴まれ、ひっぱりこまれていく。より深い、より暗い、二度と這い上がれないところへ沈めようと。

「……おい、聞こえるか、このばかたれ! お前はもう、あのときの洟垂れ小僧じゃなくて、この私の弟子になったんだろう! しっかりしろ、いちいち動揺して我を忘れてんじゃねえこのクソガキ!」
「えっ、あ……あ、まとい、さん?」
「気は確かか」
「えと……はい、助かりました。これ、拾った方がいいですか」
「家には持ち込むな。誰に、どんな影響が及ぶか分からない。鞄か何かに入れて、まっすぐここへ来い。勇次郎にもそうするよう今すぐ伝えろ。一旦切る」

 一方的に着信が切れた。急いで自室に引き返し、数日分の着替えと日用品を予め準備しておいたキャリーケースと手提げを持って家を出る。たった今地中から掘り返してきたと思しき、枯葉や土で汚れたそれを払ってから手提げにつっこみ、施錠したのを確認してから階下へ降りる。視た限りでは、やはり霊障が起こっているようにはどうしても思えない。普通なのだ。家も、その周りも、街も、全部。だったら一体何がおかしいっていうんだ、それは僕だと言いたいのか。
 口腔を強く噛み締めすぎたせいか口の中のどこかを切ったみたいで、酸っぱくて塩辛い血の味が鈍く舌を濡らす。鼻につく錆くささを振り切るようにキャリーを引いて歩き出し、通りでタクシーを捕まえて彼の──師匠の自宅へと向かう。現状、安全地帯は彼のいる場所くらいしか思いつかなかったし、すぐに来るよう言われてもいた。母さんは巻き込みたくない、できれば勇次郎も。あいつは僕を守らなくたっていいんだから。
 あの人に啖呵をきってみせたところで、結局は幼なじみを巻き込めるほどには全幅の信頼を預けきれていないのは確かで、今なおエゴが捨てきれないでいる。守られるようなやつでいたくない、あいつを守れるような人間でありたい。けれどその願いを叶えるには、この力はあまりにも邪魔すぎた。失くしてしまえたらどんなによかったか。絶えず作られ続ける霊力の、その何百分の一さえ自分で使いきれず持て余し、余分で過剰な霊気は絶え間なく異形のものを惹き付ける。
 人にも化け物にも有効なこの力が招く、怪異に父さんは殺された。あいつらはどこにても僕らを見つけ、襲いかかってくる。たくさんの人が巻き込まれてしまった。中には父さんのように死んじゃった人だっていて、そうしてどこにも居場所はなくなって、逃げ出した先にいたのがあいつだった。ようやく得た羽を休められる場所は、やっぱり僕らには眩しくて痛くてつらかった。そしてまた逃げて、辿り着いたこの街で息を潜めて生きている。
 それでも僕を捨てないでくれた、母さんだけは。あの日友達だって笑って、今でも共に泣いて笑って手を繋いでくれる勇次郎だけは。色んなものを手放して諦めて許して捨ててきたのに、それでも諦められないでいる。手放せないでいる。巻き込みたくないのに、巻き込んでしまう。守られたくないと嘯きながら、守ってもらえることを期待してしまうこの浅ましさの名はなんだ。こんなに汚くて苦しいものが恋なんて知りたくなかった。
 守りたい。守られたい。守られたくない。諦めたい、諦めたくない、諦められない。捨てられない、捨てられたくない。──それでも、ほしい。どうしても。いのちも、なまえも、たましいも、その全てを。欲して求めてやまないのは、いつだって優しい笑顔と甘やかし上手で意地っ張りな彼の全てに救われて、生きてこれたから。
 だったら餌になろう、今までもこれからも、あいつの、あいつのためだけの。たったひとつの甘露でいよう。そうしていつか、しずくの一滴さえも余さずに飲み干して、その胃の腑に溶かしてしまえ。この力も、僕という人間も、何もかも。あなたの血肉となれるなら、こんな命は惜しくないから。

「師匠っ、勇次郎は」
「今鬼電かけてる。クソ、どこで道草食ってやがんだあのバカ」
「やっぱり……何回連絡入れても繋がんなくて。これって何かが起きてるってことなんでしょうか」
「わからん。お前は無事で何よりだ。『落とし物』は持ってきたか?」
「はい。……引っ越す前に通ってた学校で、もらったもので……でも親に見られたくなくて、誰にも内緒で校庭の隅に埋めたんです。その……体質と、親の職業のことで、いじめられてて。これは、その証拠みたいな、ものだったから」

 僕の暮らす街と同じような、しかし遥かに規模の大きな繁華街の真ん中に、彼が暮らす古びた雑居ビルはある。一見すればバーだのキャバクラだのが押し込められた他の建物と変わらない。でもその地下に現代最強と名高い術師、針間纏の事務所はある。ここへ足を運ぶようになってどれくらい経つだろう。
 散らかり放題散らかっているくせに生活感がまるで感じられない部屋に置かれた、お気に入りのソファでお兄さんは僕が持ってきたアルバムをじっと睨んでいた。卓上のスマートフォンはコールをかけっぱなしの状態で放置されているものの、今のところ勇次郎が電話に出る気配はない。出先から直帰してきたばかりなのか、彼はスーツ姿で相変わらず黒いネクタイを締めていた。
 よほど気がかりなのだろう、ラグの上を革靴でひっきりなしに叩いている。コール音が無機質に鳴り響く一室で、お兄さんは膝の上で組んだ両手に自身の額を擦りつけていた。まるで祈りを捧げているかのように。やがてコールは勝手に途切れ、メッセージアプリのトーク画面に「不在着信」という自動返信が虚しく表示される。

「……記憶だ。たぶん、お前の頭ん中にある、厭な記憶を読んでんだ。でも、それが厭なものだという認識は、相手にはない。単にアルバムイコール思い出の品として、定量的に理解しているにすぎない。依頼人は、あいにく直接ここへ来るのは難しいそうだが、家の玄関に置いてあったのは指輪だったと言っていた。過去に婚約していた元恋人へ宛てたものだったと……」
「記憶は読んでるけど、その時記憶の主が何を思ったかまでは読み取りきれてない……ってことですか。いや待て、そもそも誰が記憶を? この落とし物自体が? 違いますよね。でも人間の仕業にしては、ひどく雑だ。霜野さんは雪屋さんから指摘されるまで違和感に気づけなかったけど、僕も雪屋さんも異常を察知してすぐあんたに報告した。この違いは? それ以前に、延々と落とし物と称して本人にまつわるものを送りつけ続け、しまいにゃ監視しては自死に追い込むその目的はなんだ」
「……それは、基本どこか遠くにいて、こちらへはあまり干渉してこない、というかできないんだろう。干渉のキーになるのが、モノとそれにまつわる記憶。懐かしく感じるモノ、愛着があるモノ、思い出や印象深いエピソードがあるモノ……そういう物品を手がかりにしている。落とし物は本物だけど、それ自体はなんでもない、ただの物でしかない。物だから触っても問題ない。何か……何かトリガーはあるはずなんだ、記憶が干渉のキーであるなら、更により深い干渉──攻撃のトリガーが。それがわかれば手繰りやすくなるのに」

 天井を向き、虚ろに呟いていたお兄さんの瞳は爛々と輝いていた。見開かれた眼は何か霊視をしているのは間違いなさそうだが、彼は一体何を見ているのだろう。しかし舌打ちと共にやめてしまい、正気に返ったかのようにさっきまでギラついていた双眸が平常へ戻る。やはり彼にも何も視えていない。と、なると待たれるのは勇次郎の到着だ。あいつになら、何かが視えるかもしれない。
 何度となく電話をかけてみるが一向に出る気配はなく、やがて一時間、二時間と経過した。さすがにそろそろ焦りも見えてくる。何か良からぬことに巻き込まれているのではないか。まさか怪異に目をつけられていやしないか、と思うと今すぐ外へ捜索しに行きたくなる。
 お兄さんの方はずっと各所へ連絡を入れたり、別室にある資料庫と事務所を行ったり来たりしたりと忙しなく動いていた。事務所内も書類や古文書など様々なコレクションが至るところに置きっぱなしにされているが、資料庫は更にすごい。元々、彼の自宅が地下にあるのも集めた資料の置き場を作るためで、ちょっとした図書館みたいになっている。個人宅に電動で動く移動書架があるのはかなり珍しいのではないだろうか。
 割と誰でも部屋に招くお兄さんだが、資料庫には滅多に人を入れない。稀覯本盗まれたら困る物が数多く保管されているからなのもあるが、無差別に障りをばらまくような危険極まりない呪物も一緒に保存されているからだ。呪物──そう、今回僕の元へ突然現れたこのアルバムも、もしかしたら呪物の一種に成り果てているかもしれない。これは確かにある意味思い出といえるかもしれないが、実際に脳に焼きついているのは、傷つけられ貶められた忌まわしい記憶だ。間違ってもあれを思い出だなんて、安っぽくてお綺麗な言葉で言い表したくない。
 ゲームや動画で暇つぶしする気にもなれず、今回の依頼に関わっているらしい資料の山から適当に一冊引き抜き、パラパラとページを捲ってみる。奥付を見ると昭和の中頃に出版された、各地の民話について書かれた本だ。筆者があちこちの村を訪れ、そこで耳にした痛快な話や怖い話を日誌の形で書きつけたもので、読み物としても純粋に面白い。筆名で検索すると、書き手は作家や学者ではなく、仲間うちで蒐集した地方のマイナーな伝承を趣味が高じて一冊の本として出すことになったようだ。他に出版歴はないので、記念出版だったのかもしれない。
 その中に、こんな話があった。ある海辺の町で昔から言い伝えられていることで、新月の夜は昔から家の外に出てはいけない、というものだ。海の女神は大変おそろしい容姿をしており、彼女は人間から見られることを嫌う。しかし月に一度、新月の夜に陸へ上がるのだという。その理由は海女が月のもので海を汚すのを懲らしめるためだとも、村人が海に近づかないようにするためだとも、色んな説があって定かではない。だからその晩は自宅に篭って静かに過ごさなければならないという。
 ところが、他所から来たある家の者は、そんなものは迷信だと鼻で笑い、あるとき新月の夜だというのに他の街まで出かけ、遊び歩いていたという。朝になって帰宅したその者は、自宅の前に落ちているものに気づいた。それは妻と夫婦になる前、旅行先の神社で買った安産祈願の御守りだった。嫌な予感がして慌てて家の中へ入ると、妻は既に事切れており、家中酷い磯の匂いが漂っていたという。話はそこで終わっており、解説はない。
 これだけなら「出るなの禁忌」を破った人間への制裁というよくあるパターンの伝承だ。問題は、そう「落とし物」のくだりである。ルールに違反した人間ではなくその身内にしっぺ返しがくるのはやや珍しいが、その証拠を目に見える形で残していくタイプはあまり見ない。被害者にとって縁のあるモノ、というのはなんだか民話や怪異譚というよりミステリーやサスペンスの趣がある。ひどく人間くさいのだ。
 この話では、よそものの妻が死んだ原因が海の女神と明らかにされている。だが仮にこの伝承が、昔話や神話によくありがちな実際に起きた出来事がベースになっているとするなら、おそらく犯人がいたのだろう。この夫妻をよく知る人物で、どちらか一方に確執があった人間か。あるいは村ぐるみの事件か。被害に遭ったのが共同体の風習や暗黙の了解に馴染まない、外から来た人間というのが実に分かりやすい。
 もちろん今起きている現象と容易に結びつけるわけにはいかないし、たぶん実際のところ関係はないだろう。よく似ている、でも異なる要因の、それぞれ別の現象あるいは事件でしかない。しかし雪屋さんと霜野さんをこの話に出てきた夫婦になぞらえるなら、まさに妻側──霜野さんが先に亡くなっている。だとするなら次は夫側に報いがあってもおかしくない。待て、報い? 何らかの禁忌を犯していない人間に報いというのは不可解だ。どうして僕は、彼らに報いがあると考えたのか。
 嫌な予感に総毛立ったその時、これまたずいぶんと古そうな本を何冊も抱えたお兄さんが資料庫から戻ってきたところだった。僕が手にしていた本を目にすると、途端に眉間に皺を寄せる。

「……それ、どこで見つけてきた」
「どこでも何も。最初っからここにありましたよ」
「は? 私はそんなの資料庫に置いてないぞ。目録を作成するついでに、自前の資料は全て記憶している。そんな本、私はどこからも入手していない」
「え……じゃあ、これは、どこから」
「勇次郎から連絡は来ているか」
「……今のところは、まだ」
「そうか……おそらく『彼』のところにいる。まんまと一杯食わされたな、我々は。クソッ、『あれ』の本命はお前じゃない、あのバカってこった!」

 せっかく集めてきた資料をデスク目がけて乱雑に投げっぱなすと、僕から本を引ったくって該当のページを広げた。収録されているどの話を読んだかも教えてないのに、ドンピシャでそのページを開いてみせたのは、さすがになんの話が怪しいか即座に見抜いたからだろう。文字列をさっと目で追うと、噛みちぎりそうな勢いで下唇を噛む。

「やっぱりだ。嵌められたな、あいつらも私達も。忌々しい……落とし物ってのは疑似餌だ、要するに。釣りに使うルアーみたいなもんだ。彼女の日記にあった『視線』、あれこそが奴の正体に繋がるヒントだ。ずっと見てたんだよ、獲物が疑似餌に食いつくその時を」
「でも霜野さんが初めに落とし物を見つけてから亡くなるまでに半年ものタイムラグがあった。おかしくないですか、こんなに一気に事態が悪化するなんて」
「……そうせざるを得ない理由が相手にある、としたらどうだ? たとえば勇次郎のやつが化けの皮を引っペがしちまった、とか」
「そんなの……うわ、めちゃくちゃありそう」

 勇次郎は特段頭がいいわけではない。いや勉強ができないという意味のバカではなく(その意味だとむしろ僕の方が当てはまってしまう)、たまにひとの地雷を踏み抜いてしまうというか……微妙に空気を読まない瞬間があるというか、人付き合いがあんまりうまくない。だから僕以外に親しい人間というのもほとんどいなかった。彼の人間関係は、家族を抜きにすると新浪龍樹という人間を中心に築かれていたようなところがある。
 そして勇次郎の得意技のひとつに、相手が一番突かれたくないことを相手が一番嫌がるタイミングで突いてしまうというものがある。図星をつくともいう。人間、誰でも正論だと分かっていても呑み込めない場合はあるものだが、勇次郎はたぶんそれを分かっているようで分かってない。だから時折、無自覚にひとの心に傷をつけてしまう。それはきっと、己の兄に対しても。
 手に負えないのはそれを彼自身がわかってないことである。相手にとって最もクリティカルな言葉というのは、何も図星をつくことだけに留まらない。いい意味でも勇次郎の放った言葉は心に届く。響いてしまう。そのとき一番欲しい一言もくれる、一番言ってほしかったことも言ってくれる、あいつはそういうやつだから。きっとそんな彼を知るひとが、知ろうとしてくれる人間が現れたら。勇次郎は僕だけの勇次郎じゃなくなってしまうだろう。

「……人誑しめ」
「今なんか言ったか?」
「いえ、なんでも。それよりどうすればいいですか。どうしたらあいつらを助けられる?」
「私が時空とか空間の壁を超えて本人達の元に行ければそれが手っ取り早いんだがな、さすがにそこまで人間は辞めてない。ってワケで道具を使う」
「道具、ですか」
「ああ。釣りは釣竿がないとできないだろ? せっかく誘ってもらってんだ、ちゃんと釣り上げてやらなきゃな」

 言いつつお兄さんはスーツのジャケットを脱いで放り投げ、ワイシャツの袖をまくる。肉の薄い、生白い腕は本当に血が通っているのかも疑わしい。デスク上のペン立てから引き抜いたカッターナイフでスパッと表面の皮膚のみを切り裂くと、僅かに血飛沫が床上へ散った。ラグに吸い込まれる直前、血の雫が蒸発したように霧散し、ゆらりとひとつの巨大な人影を形作る。
 見上げるほど大きな、それは男のなりをした人間らしきものだった。うすべに色の長い髪がふわりと風もないのにたなびき、滴るような真紅の着物の上に銀糸を精緻に織り込んだ眩い純白の打掛を羽織り、浅黒い肌をした青年は炯々と輝く双眸をお兄さんへと向けた。にんまりと笑みの形に歪んだ唇が開き、よう親愛なるクソッタレ、と親しげに声がかかる。

「久しぶりだな。かなしいなあ、おめえがちっせえ頃はどうでもいいことでも召喚してくれていたっつうのに、今じゃ滅多に喚ばなくなっちまって。おれァ、ずっと寂しかったんだぜ」
「相変わらず口の減らねえカミサマだなお前は。やかましいから喚びたくなかったんだよ」
「そりゃあんまりだぜ、神ってやつは大概がおしゃべりだろ? 口から先に生まれてきたおれに喋るな、だって? そいつは拷問ってもんだぜ! ひでえなあ、それでもおれのあるじサマかよ」
「……はあ。悪いが馬鹿の戯言にいちいち構ってやる暇はないんだが。おい、お使いくらいはさすがにしっかりこなしてもらわないと困るぞ、曲輪」
「あいよぉ、人遣いが荒い飼い主サマだな、まったく。それで、今回のお使いはてめえの弟御を連れて来やあいいんだな」
「それだけじゃない。おそらく同行者もいるはずだ。そいつも助けてやれ。……わかっていると思うが、殺すなよ」
「ちぇ。死体の方が運びやすいのに。しょうがねえな……おめえこそわかってるだろ? 帰ってきたらちゃあんと『ご褒美』くれよ。とびっきりのを期待してんぜ」

 腕組みをして仁王立ちする仏頂面のお兄さんへ、曲輪と呼ばれたその人ならぬものは額へ軽い口付けを贈ると再びその姿を消した。「彼」をこの目で直に拝見する機会はこれまでなかったから、初めて直接目にしたことになる。曲輪は本来、人間に使役されるような存在ではない。
 彼は正真正銘、本物の神様だ。力ある神霊として長らく一つの土地を守り、治めてきた。時代と共に氏子は減り、村は廃れ、信仰を失い、やがて零落し神名すらもなくして彷徨い続けるだけの、ばけものと成り果てていたところを針間纏に見出された。
 神霊であったことも忘れ、ただの怪異として暴れ狂うだけの存在と化していた曲輪を調伏したのがお兄さんだ。以来、彼の式神として麾下にくだった曲輪は日頃は自由気ままに振る舞い、現代の人界を満喫しているようだ。
 だが、こうして主に呼び出されれば式神として仕事をしなくてはならない。あるときは人身をとってお兄さんの助手を演じ、またあるときはその霊威を奮って主人の手足となり、ときには矛となり盾にもなる。
 彼と曲輪との間には、僕と勇次郎が交わした契約よりも更に厳しい縛りがそこには働いている。なぜなら曲輪はお兄さんに敗北を喫し、一度調伏された以上は、生殺与奪の権を握られているに等しい立場だから。負けて祓われる代わりに、相手に傅くことで命を長らえた。
 そこにあるのは対等な信頼ではなく、純然たる主従関係である。それでも曲輪は奴隷のような振る舞いを強制されてもいないし、虐げられてもいない。主従ではあるが、相棒のような関係性をお兄さんとの間に築いている。

「……ひとまず曲輪を行かせたから、あいつらの命は保証されたも同然だろう。私が直接行ければそれに越したことはないが、どうせ異界にでも身柄をかっ攫われているだろうからな。そうなると手出しは不可能だ」
「師匠なら瞬間移動もできそうな気がしなくもないんですけどねえ」
「離魂の術を使えばできないことはないな。夢殿を経由すれば異界への侵入もできるかもしれない。だがリスクが高すぎる。離魂中に襲撃に遭えばお前を逃がすことも守ることもできないし、帰還先の肉体も失う。それに、向かった先で魂に傷を負うと肉体にフィードバックされてしまう。曲輪に任せる方がいくらか安全だ」

 と嘯く彼は、冷蔵庫の中から取り出した缶コーヒーを開封しようとして苦戦している。微かに震える指先は、なかなかプルタブをうまく開けられず、さっきから無闇にプルタブの周囲をコツコツ叩いているだけになっていた。見かねて横から缶を奪い取り、開栓してやる。ようやく開いた缶コーヒーを渡すと、彼は美しいアーモンド型の瞳を見開いて、ぱちぱち瞬かせた。

「……ガラにもないって、思ったんだろ。お前も」
「いえ。僕はずっと昔からあなたを知ってます。厳しいフリして、素っ気ない態度を装って、冷徹な人間を演じて、大事なものを遠ざけることで守ろうとしてきた……本当は優しいひとなんだ、ってことを」
「うそだよ。そんなの、全然ほんとのことじゃない。私はずっとずっと、ずるいやつだ。自分のせいで失いたくないから、失くすのがこわいから、必死に逃げてるだけだ。馬鹿だよな、あいつはそんなにヤワじゃないのに、もうちゃんと立って歩いて生きてゆけるのに、それでも失くしかけたときのことを忘れられなくて、今でも怯えてる。また、この手からすり抜けて、届かないところへ行ってしまうんじゃないか、って」
「当たり前のことじゃないですか、それは。誰だって怖いんですよ。今日、明日、あるいはいつか。大事なものが壊れちゃうことも、消えちゃうことも。たまらなく怖くて、怖いから守ろうとする。それは僕も、あなたも同じなんじゃないですか。僕は怖くても隣にいたかった。あなたは隣にいるよりも守り通すことを選んだ。僕らの違いなんて、しょせんそんなもんですよ」

 針間纏というひとは昔から不器用な人間だった。彼は何より年の離れた弟を大事に思っているくせに、大切にするのはひどく苦手な性分だった。甘やかすのが下手で、無邪気に懐いてくる弟を可愛がるのも不得手で。それでもきっと何よりも誰よりも彼の心を捕らえて離さないのは、今も昔も勇次郎だけなのだと思う。勇次郎がいる限り針間纏はこれからもずっと「お兄さん」であり続ける。勇次郎の、勇次郎のためだけの、たった一人の。
 僕は一人っ子だったから、そんな勇次郎が羨ましくて仕方なかった。今より幼い頃の話だ。彼のように、誰かにいっとう大切にされたくて、愛されたくてたまらなかった。お兄さんが僕の「師匠」になったときなど、勇次郎に自慢したくてしょうがなかったものだ。
 とはいえ、もちろん彼に甘やかしてもらったことなんてないけれど、もしも自分に兄というひとがいたらこんなだろうかと想像してばかりいた。一方で、幼なじみから彼の兄をこっそり奪ってしまったみたいで、決して誰にも明かせない罪悪感に苦しんでいた時代だってある。
 今なお勇次郎への罪悪感も、羨望も、憧憬も、ささやかな嫉妬心も消せずに魂のどこかに眠っている。だけどそれ以上に、式神としてこの身を捧げることを厭わないくらいに、針間勇次郎という人間に──どうしようもなく惹かれてしまっている。
 あなたに全てをあげたいと、食べられてしまっても構わないと、彼のための贄であることを選ぶほどに。求めている。乞うている。共に歩んでいけるなら、隣に居ることができるなら、それで構わない。たとえこの苦しいだけの恋情が叶わなくても。

「今だって後悔している。私はあのとき、自分の手で問題を解決すればいいと──あいつの命を守りたいと、ただそればかりを考えていた。ほんの少しでさえも呪詛にもがき苦しむあいつの傍にいてやらなかった。くだらない報復などは親に任せて、あいつが一人になんかならないように一緒にいてやるべきだったのに。好かれたいんじゃない、嫌われるのが怖いんじゃない。ただ、あいつが寂しくないように、この手でくるんであげたかった。そうすればよかったと、何度悔いたらあの日に戻れるんだろうな」

 勇次郎は、あまりに高すぎる感知能力を恐れた悪しき術師達に呪詛を仕掛けられたことがある。まだ当時は、見鬼に目覚める前だったというのに。幼い彼は、なんの準備や防御もできず、まともに呪詛を幼いその身に受けたことで生死の境をさまようほど苦しんだ。頭痛、発熱、悪心、嘔吐、全身への激痛、それらは全て死すらも願うほどの苦痛と恐怖をもたらしたことだろう。
 勇次郎を狙った輩の中には針間一族やその次期当主であるお兄さんを逆恨みしていた連中もいた。当然ながらそいつらを許してやるような人間ではなく、彼は徹底的かつ苛烈なまでの報復と弾圧を断行したという。直接手を出した人間はもちろん、その周囲の仲間、家族、協力関係にある者など、数えあげればキリがない。その全員へ呪詛返しを行い、時にはその手にかけた人もいる。
 皮肉なことに、無慈悲で冷徹な復讐こそが針間纏の名を一気に押し上げた。彼の異名「ラストリゾート」はこれに由来している。必要とあらば呪殺すら厭わず、一度敵と看做した者を容赦なく屠る、ヒトも化け物も無に帰す存在。その背に栄光はない。その道は血塗られている。彼はいつだって人にも怪異にも恐れられるばかりで、決して愛されることはない。そういう生き方を選んだ。
 だから勇次郎は。針間纏というひとにとって、たったひとりの。何にも代え難い、唯一であり続ける。今までも、そしてこれからも。

「今からでも遅くないんじゃないですか」
「……え?」
「勇次郎は素直じゃないし、強情だし、意地っ張りだし、そういうのは全部あんたとそっくり。僕も同じくらい意地っ張りだし強情だから、あんまり人のこと言えないけど。でも、僕はもうたくさんの愛をあいつから受け取ってきた。今度はあんたも受け取る番だ。ねえ僕ら、愛されたがりなところまで、おんなじなんですよ。気づいてました?」
「なんだよ、それ。今更、そんなの」
「ひとは一人で生きてゆけるほど強くない。それはあなたもだ。師匠、お兄さん──ううん、纏さん。あなたはあいつにとってたった一人のお兄ちゃんだけど、でもその前に、一人の人間でもあるってこと、忘れちゃダメなんじゃないですか」
「……馬鹿馬鹿しい。くだらんな」
「あっそーですか。いっつも寂しそうな顔してるくせに、ほーんと素直じゃないなあ、もう」

 虚をつかれたように目をまんまるに見開く彼をほっといて、あの怪しげな本を探す。他に収録されていたエピソードに正体へ繋がるヒントが隠れているかもしれないと思ったのだ。しかし、本はもうどこにもなかった。まるでそんなもの、はじめから存在していなかったかのように。


◆◆◆


 酷い頭痛と共に飛び起きた。目を覚ますと、そこは直前までいたお兄さんの部屋ではなく、単身者向けマンションのワンルームのように見えた。暮らしていたのは女性だろうか、テーブル、ラグ、戸棚、小物といったインテリアの一つ一つにこだわりが窺える。全体的にシンプルにまとめられた過ごしやすそうな部屋で、高層にあるのかベランダからの見晴らしもいい。
 自分が寝かされていたのは組み変えればベッドにもなるソファで、クッションもいくつか置かれていた。まだこめかみがズキズキと疼くのを堪えて起き上がり、二階へ上がれる階段を見つけて昇ってみる。上階は寝室で、なかなか大きなベッドが置かれ、その横にある本棚にはたくさんの写真集がしまいこまれている。「彼女」は、ベッドの中で身を起こして、小窓の方へと顔を向けていた。

「……もしかして、霜野さんですか? あなたは」
「え、あれ……あなた、だれ? おかしい、わたしは死んだはず、じゃ……」
「落ち着いてください。たぶん、ここは境目です。生きてる僕と死んでるあなたが顔を合わせてるってことは、あっちでもこっちでもないどこかにいる、ってことだと思います。でもおかしいな、なんで僕が……」
「わかんない……あのとき、わたしは『あれ』を見て、気を失って、気がついたらここにいた。最初は死んでることにうまく気づけなかったけど、ここからどうしても動けなくて、やっと死んだかも、って……あなたも、なの?」
「いえ……幼なじみのお兄さんのところへ会いに行ってて、さっきまで一緒にいたんだけど、いつの間にかここへ来てました。もしかしたら、あなたに呼ばれたのかも。ねえ、ここに男の子が来ませんでしたか? 僕と同じくらいの年頃で、黒髪の」
「……いいえ。来てない。ずっと一人だった。あのときからずっと、ここに。ひとりだったの。誰も来ない、誰にも会えない。あの人にも」

 言うと苦しげに微笑し、彼女は顔を俯けてしまった。長い髪、華奢な肩、優しげな顔立ち、その全てに心当たりがある。間違いなく雪屋さんの写真で見た女性だった。霜野さんは、あの日記を書き残したあと亡くなり、それからずっとこの部屋に囚われていたのだ。自死を図ったというのが雪屋さんから聞いた情報だが、それも事実か疑わしい。何者かにそう仕向けられた可能性だってある。
 僕らが閉じ込められているのは、あの世とこの世のちょうど境にある世界だ。生者が夢を見ている間、あるいは死者が行くべきところへ行けずに彷徨う間、迷い込んでしまう場所。祓いを生業とする家の者はここへ意図的に訪れることもできるそうだが、普通はここへ自由に行き来することはできない。
 霜野さんがなぜあちらに行けず、こんなところへ来てしまったのかは分からないが、ともかく長居すべきではない。なんとか本来向かうべきところへ案内する必要があるが、あいにく僕は生きている人間で、向こうへの行き方なんか知る由もない。それどころか案内しようとした自分まであの世に行ってしまうかもしれない。
 どうしたもんかと考えあぐねていると、彼女はふいに本棚から、いくつもある写真集のうちの一冊を抜き出した。今風のオシャレな装丁に、雪屋さんの名前が著者名として印刷されている。タイトルは「彼女。」とあった。表紙を飾っているのは、目の前にいる彼女そのひとだ。

「……彼ね、カメラマンの夢を叶えたばかりだったの。わたしと彼は幼なじみで、ちっちゃい頃から写真が好きで、よく色んなものを撮っていた。わたしは自分に自信がなくて、誰かに写してもらうのが苦手だったから……被写体になるのを断ってばかりだったけど、初めての写真集は絶対にわたしの表紙がいいって言ってきかなくて。しょうがないから一枚だけねって約束で、写してもらって……綺麗でしょう。実物と違って。これね、編集とか加工とか一切なしの、撮って出しなんだって。とてもそうには見えないよね。他ならぬわたしだって、まるで自分じゃないみたいに見えるんだもの」

 表紙を飾る彼女は、たとえようもなく美しかった。肩にかかる髪は降り注ぐ陽光を吸い込んで輝き、水気をたっぷり含んだ瞳は夢見るように潤んで、あふれた涙が光を弾いてきらめいている。白く抜ける肌も、それを覆う衣服も、今にも透き通って、光に溶けて消えてしまいそうで。これを撮った人間が、被写体に何を思い何を感じているか、写真を通じて理解できてしまえそうだった。
 それが恋慕であれ友情であれ、愛には違いない。だからこそ彼女を失った彼の慟哭と苦しみが痛いほどにわかる。もしも自分が同じように、唯一を失ったなら。

「あの、一緒に行きませんか。途中までなら僕にもきっと案内できます。ここに長く居るのは良くないです。本来あなたが行かなくちゃいけないところに行けなくなってしまう。そうなってしまえば、二度と、会えなくなる。いずれ来る、彼にも」
「行くって、どこに。どこに行けるっていうの。わたしはもう、どこにも行けない。行けないの」
「そんなことありません。本当に行けないひとは、ここにも来れない。ずっとこちらに留まったまま。僕はそういうひとの最後をたくさん見てきた。みんな苦しんでいた。行きたいところに行けないままは、きっとつらい。苦しくてしんどくて、こわくて哀しい。……僕は、あなたには、そうなってほしくないです」
「どうして? だってたった今、知り合ったばかりなのに。他人じゃない、あなたとわたしは。だったら別にどうなったって、どうだっていいはずでしょう」
「……あなたにとってはそうでも、僕にとってはそうじゃない。もう他人じゃない。少しだけど、言葉を交わした。あなたの声を聞いて、あなたの思いを知った。だからもう、他人なんかじゃない。それに僕は雪屋さんから、あなたとのことも色々、話を聞きました。雪屋さんがどれほどあなたを案じているかも」
「……あの人から?」

 ずっと俯いたままだった彼女が、ようやく顔をあげた。泣き腫らした瞳から、ぽろりとまた涙がこぼれ、頬を伝って落ちていく。ずっと泣き続けていたのだろう。涸れるまで止まらない涙は、彼女が流しているんじゃない。この世に生きる人達が霜野さんの死を哀しんで泣いているから、だから彼女は泣いている。生者の悲しみは死者にも届く。生者が死者を留めようとする限り、彼ら彼女らは行くべきところへ行けないままだ。
 僕は残されたとき、悲しまずにいられるだろうか。笑って送り出せるだろうか。己の涙が死者をも哀しませると知って、それでも泣かずにいられるだろうか。

「ねえ、彼は、どこにいるの……お願い、もしもあの人もここに来ているなら。会わせて、せめて一度でいい、最後にお別れを。さよならも言えないうちに、置いていきたくないの。あの人が笑えるように、ちゃんと前に進むって約束するから」
「僕にも、今は分からない。でもあいつがきっと彼の傍にいる。それを探します。一緒に行きましょう。きっと雪屋さんも、あなたを待ってる」

 長いこと伏せっていたためか足元が覚束ない彼女のために手を繋いだまま、階下へ降りて二人で玄関を開けて外へ出る。霜野さんが生前暮らしていたマンションを忠実に再現しているようだが、一階エントランスのオートロックは外れたままだった。そこは再現できなかったらしい。マンションの外は、何も知らなければ単なる街並みと思ってしまいそうなくらい、なんでもないごく普通の風景だった。ただ通行人の姿はない。
 徒歩で行ける距離に、最初に雪屋さんと話をしたあのファミレスが見えてくる。よく二人でここに来て食事をしたのだと霜野さんが言うので、試しに入ってみることにした。雪屋さんが来ているかは賭けだったが、果たして彼はやはり勇次郎と一緒に来店していた。昨日ぶりにやっと再会できて、我知らず嘆息する。

「……! お前! なんでここにいるッ!? 本物の龍樹か、それとも」
「正真正銘本物の僕だよ。それより勇次郎、雪屋さんにずっとついててくれてたんだ」
「当たり前だろ。一人にしておけねえじゃん、一応……あいつの客なんだし」
「そっか。ありがとう。……すみません、ちょっと二人で話してきます。二人も、どうぞごゆっくり」
「え、あ、おい! ちょっと! そんな引っ張んなって!」

 雪屋さんと霜野さんのことは二人が解決すべきだ。その時がくれば、彼女はちゃんと行くべきところへ行ける。会いたい人のところへ辿り着いたのだから、それができないわけがない。だから実務を解決するのは僕らの仕事だ。ここから先は、今生きている僕らの役目。
 お冷も何もない代わりに、その本はテーブルの上に置かれている。さっきお兄さんの部屋で見た、ある逸話が収録された、見た目はただのハードカバー。発行されてから年月が経過しているからか、ずいぶん古ぼけた見た目をした本の、紐の栞が挟んであるページを開く。海の女神が定めた禁忌を破り、報いを受けた夫妻の話。
 海の女神というのはもちろん後付けだ。新月の夜に出歩いてはいけないという禁忌も。この話を読み解く上で重要な事実は、そう、夫婦にとって大切なものが落ちていたこと。想いや気持ちのこもった落とし物。僕の家の前にはアルバムが落ちていた。では、勇次郎は一体、何を落としたのか。彼はややあって、羽織っていた上着のポケットから何かを取り出した。

「これ……キーホルダー? 懐かしいな、小学校んときの修学旅行で一緒にお揃いの買ったよね。まだ持っててくれてたんだ……」
「なんか、捨てらんなくて。ずっと持ってた。部屋の鍵とかチャリの鍵と一緒に。でも気がついたら失くなってて、家を出たら玄関先にこれが落ちてた。ああ、だから『伝染った』んだって、すぐわかった」
「僕のはアルバムだった。転校する前の、まだお前と知り合うより前のやつ。思い出の品って名目で、転校する子供宛に手作りのアルバムを渡すんだ。普通は、学校の行事とかで撮った写真とか、個人的な写真もあればそれを使うんだけど、僕のは……その、そういうのじゃ、なくて。だから受け取らされたあとも、何度も捨てようと思った。それで引っ越す直前に、学校の校庭の、すっごい奥まったところに穴掘って埋めた。……なのに、それが、お前と同じく玄関先に落ちてた。まるで忘れんな、って言うみたいに」

 アルバムと称したそれは加虐の記録だ。僕が受けた仕打ちを克明に記したもの。いじめと呼ばれるそれがある種の犯罪であり、罪に問えるものである以上、アルバムは証拠となりうるのだから、相手を追い詰める武器になるかもしれない。でも幼すぎた僕に、そんな発想はなかった。親を悲しませたくなかった。いじめられてるなんて知られたくなかった、なぜなら母さんが何をして僕を育ててきたかが他ならぬいじめの要因だったから。
 あの人が泣くのを見たくない。あの人をこれ以上追い詰めたくない。ただでさえ僕というお荷物がいて、そのせいで自由もお金も奪われて縛られているのに。それでも母さんは僕を大切にしてくれていた。自分の尊厳を切り売りしてでも、養おうとしてくれた彼女に。どうして、あなたのせいで苦しんでいると自白できるだろう。だからなかったことにした。苦しみも、悲しみも痛みも、全てアルバムと共に土の下に。
 やがて親子共々逃げた先で勇次郎に出会って、世界は変わった。世界はもっと広くて、色んな人がいて、苦しみだけじゃなくて、楽しいことも未来もちゃんとあるんだと知った。生きようと思えたのは、勇次郎に出会えたから。あの頃、僕の光は彼だった。それは今でも変わらない。ずっと前から、そして今でも、あなたが僕を照らしてくれている。その光に負けないように、僕だってあなたの光になれたらいいと願って生きている。

「……忘れるな、か。案外それかもな。落とし物が届く理由。ここにある、そして、見ている。どれも意思を感じやしねーか? 存在を忘れられないために物で示して、それでも気づかない相手に気づかせるために見ている。どちらもアピールだ」
「だとして、それは誰が一体なんのために。忘れられたくないのは誰なんだよ」
「それはひとによるんじゃねえの。なあ、この本どこから持ってきた?」
「わからない……お兄さんも知らないって言ってた。気づいたら、ここにあったと」
「なるほど。じゃあ、もしかして『これ』なんじゃないか? 原因とやらは」

 勇次郎は例の逸話を読み終えたあと、ペラペラとページを捲って奥付を指し示す。出版社、著者名、発行年月日、初版はいつでこれは第何刷か、細々と書いてあるそれは別になんの変哲もないとしか思えない。少なくとも何か問題があるようには見受けられなかった。彼はお前のことだから著者についても調べたんだろと訊いてきた。
 確かに軽く検索したが、この本を書いた人はもう亡くなっている。各地の民話について調べたり蒐集するのが趣味で、同じ趣味仲間と一緒にマイナーな伝承や昔話をあちこち巡って集めて一つの本にまとめた。だが、次の本に繋がることはなく、間もなく病に倒れ著者は死亡している。趣味仲間達も散り散りになったか、二冊目を出そうという動きには至らなかったようだ。
 まさか、本がこの現象を引き起こしたとでも言いたいのだろうか、勇次郎は。確かに長年使い古された道具または人形などに魂が宿るという考えは昔からあるし、実際そうした付喪神による霊障なども度々確認されてはいる。だが書物がそれらと同じ事象の要因になるケースというのは聞いたことがない。海外には高名な術師が執筆した本、つまり魔導書が内容を迂闊に読まれないようセキュリティとして呪詛を仕掛けてくることもあるらしいが。
 勇次郎は、この本はそういった魔導書の類でもなければ付喪神でもないと否定した。感知にかけては兄をも凌ぐほどだ、勇次郎が言うならそうなんだろう。

「もうこの本に悪意はない。いや、あったけど消えた、って云う方がいいのかも。最初は確かに呪いの本だったんだと思う。でも本ってのは長い時間をかけて、色んな人に読み継がれていくものだろ。その過程で、読んだ人の想いも挟まるんだ。ほら、こうして栞を挟んでおくみたいに。色んな想いが挟まって、重なって、重なり合って、そうしていつか混ざった。混ざり合い、やがて溶けてひとつに。最後に残ったのは、忘れられたくないという願いであり──呪いだ」

 昔話やおとぎ話というのは、必ずしも良いものばかりとは限らない。そこには暗喩や隠語を用いて隠された、人の悪意や悪事が潜んでいることもある。逸話の夫婦はよそものであったがゆえに共同体の掟に馴染めず、出るなの禁忌を破った。ルールに違反したことで死という結末を迎えたように、時として理不尽にみえるお話の裏には、何か別な意図が存在していることもある。
 おそらくこの本に収められた物語は、そうした高度に暗喩化された悪意からなるものばかりだった。悪意によって紡がれたストーリーは、本として出版される形でゆるく広がりを見せ、やがて力を持つようになる。長い年月が経ち多くの人の手に渡り、読み手の思考や感情までもが残り、重なり、混ざり合うことで、力は更に強まって、とうとう破裂と解放の時を迎えた。一人の女性を死に追いやるという形で。
 落とし物は、忘れてはならないもの。本に込められたのは祈り。どうか忘れてくれるな、覚えていてほしい、という切なる願い。そして呪いとなる。祈りとは、すなわち呪いなのだから。口伝により次の世代へ語り継がれてゆく伝承は、いずれは廃れて消える運命だった。書き残されたことで口伝は確かな伝承へと成った。ゆえに力を持ち、呪いへと進化したのだ。
 なるほど確かに本そのものではない。本となったことが呪いとなる条件だった。そして読み手が死しても、日記という形で更に書き残されたことで、呪いは確かに成就したのだ。写真もまた後世へ情報を伝える道具となる。アルバムはそれをたくさん収めておける。全ては繋がっていて、けれど目的はいつだって、たったひとつだけ。

「勇次郎、それで結局どうするんだ? 考えれば考えるほど対処法なんかないような気がしてくるんだけど。それになんで霜野さんが狙われたんだよ」
「日記に書かれてないからそこは知らん。読んだ人間が呪われるみたいな分かりやすいトリガーもないし。あえて言うなら、思い出の品を持っている人間は全て、この本の対象となりうるんだろ」
「それってほとんどの人間が当てはまっちゃうじゃん。ミニマリストみたいな人はともかく、普通は誰でも思い入れのある品って持ってるもんだろ」
「だから簡単なんだって。大事にしたらいい。想いのこもったものを捨てたり、失くしたり、忘れたりしないで大事に扱う。それだけでこいつは満足する。……他の人を狙わないようにと約束させるには、誰かがこの本を所持し続けるしかない。もう無理やり言うことを聞かせるしか他に方法はないだろうな」

 結局「ラストリゾート」のお役目ってわけだ。結果的にこの本が宿主として針間纏を選んだのは正解だったといえる。彼が持ち続ける限り悪さはしないだろう。一般の出版社で発行されている以上、同じ本は問題なく流通しているはずだが、今目の前にあるものだけが呪いを撒き散らしているなら他の版へも影響が及ぶとは考えにくい。
 本というのはただの媒介だ。虫が花粉を運ぶように、本という形にまとめられた情報が緩やかに人々の間を伝っていく。だから本そのものに異常があるわけじゃない。問題は書かれている内容、そこに挟まれた想い、長い時間をかけて大勢の人間の手に渡ったことで、重なっていく感情そのものだ。
 ひとつひとつのページに織り込まれた想いは、たとえくすんでも、決して消え去ることはない。ただ色と形を変えていくだけだ。悪意は摩耗し、かすれ、代わりに差し込まれたのは忘却されることへの恐怖。トリガーは分からない。どういう形でこの本が何に、誰に、どんな風に作用するのか。本が流通し続ける限り、呪いはゆるく静かに広まっていくだろう。
 一方で呪いは一つの成就をみた。霜野さんの日記だ。落とし物について克明に記述されたそれが、本の内容をある程度踏襲していることで、間接的にではあるが伝承を世に残すという本の目的に寄与している。口伝は伝承に、伝承は都市伝説へ。形を変えてこれからも残っていくだろう。原初の願いが果たされたことで力は少しずつ削られ、そしていつか、最終的にはただの「噂」に。
 目の前にあるこの本はいわば、いずれ都市伝説へと成っていく代物の、原典と呼んでもいいのかもしれない。だからこそ針間纏が所持することに意味がある。原典がしっかり管理されているなら、同じく出版された他の在庫が暴れ出すこともない。
 ふと隣の席を見やると、今まさに霜野さんが旅立とうとしているところだった。晴れやかに、笑顔でその姿を透かしていく彼女を見送る雪屋さんもまた、今にも泣き出しそうな笑みを湛えている。門出に涙はふさわしくない。死は永劫の別れを意味しない。なぜなら誰もが道を終えた先に向かうものが、死であるからだ。いつか再び会える。再見は確かにある。
 泣くのを堪えて、彼女が消えゆく様を見届けた彼は、懐から出したスマートフォンのカメラを起動させる。むろんここは現実世界と同じ物理法則が正しく機能する世界じゃない。撮ったところで形には残らない。それでも、大切な人を失ってから一度もカメラに触れることができなかった彼は、ようやく再びファインダー越しに世界を見るようになった。
 たとえフィルムに焼きつけることはできなくても、記憶は残り続ける。彼の脳に。そして二度と忘れないように、忘れないためにレンズを通して彼は、彼が美しいと思うものをこれからも撮り続けていくのだろう。日記に、本に、アルバムに、忘れてしまっても残せるものはある。だとするなら、僕にも。

「……ありがとうございます、二人とも。やっと踏ん切りがつきました。お別れを言えた。これでやっと、向こうでもなんとか、やっていけると思います。ううん、ちゃんとやっていかなくちゃならないよな。でないと、あいつに笑われてしまうから」
「ええ。どうか笑ってください。笑って、生きていってください。供養、というのが正しいかわからないけど、あなたが笑って生きてゆくことが、彼女が正しい道へ進むことに繋がります。いつかまた、きっと会えますよ。生きて、生ききったそのあとに」
「そっか。じゃあ、泣き暮らすのはもう、やめるよ。大人ですから。それじゃ、また──」
「……ええ。また」


◆◆◆


 気がつくと、辺りはお兄さんの自宅兼事務所にある寝室だった。元は物置として使われていた区画を改造して作ったもので、狭苦しい室内には折り畳み式の簡易ベッドがぽつんと置かれているだけだ。他に調度も何もなく、なんとも無機質で寂しげな部屋である。あの世とこの世の境目などという異界へ呼ばれている間、気を失っている僕をわざわざ運び込んでくれたのだろう。
 慌ててスマートフォンで時刻を確認するが、一時間と経っていなかった。気絶してからそんなに時間が経っていないことに安堵しつつリビングと事務所を兼ねた大部屋まで戻る。そういえば向こうで曲輪に出くわさなかったけど、もしかして行き違いになってしまったのだろうか。

「おお、お目覚めか。どうだった、あっちは」
「どうもこうも、あんまり気持ちのいいものではないですよね。そもそも生きてるうちに何回も行く羽目になること自体おかしいんですよ」
「はっはっは。言えてら。まあ針間の人間にとっちゃ庭みたいなもんだな! お前もいずれ『針間』になるんだし、慣れといて損はなかろう」
「えっ。いや、その。別にまだ結婚するとか決まってるわけじゃ。あいつが自覚してるのかもわかんないし……って何言わすんですか! もう! そもそも付き合ってもないですよ、全然そういう雰囲気になんないし!」
「はっ、どうだか。お前が鈍いだけなんじゃねえの? あいつは痩せ我慢が好きなヘタレ野郎だから、手ぇ出したくてたまんないのをギリギリ堪えてるんだろうよ、まあ適度に発散させてやれ。でないといつプッツンするかわかんねえからなあ」
「もう! 師匠の馬鹿! 下品! もうちょい慎みってもんがあるでしょうが! ……そういえば勇次郎は」

 てっきりあいつもここへ駆けつけているものとばかり思い込んでいたが、事務所にはお兄さんだけがいた。曲輪はどうしているか訊ねると、例の本を全回収するのに使いっ走りをさせているらしい。鬼だ。なんて人遣い、いや神遣いの荒い主人なんだ。
 原典を彼が所有し管理することで落着した以上、ひとまずこれ以上の騒動が起きるとは考えにくいものの、念のため流通している全ての在庫を集めて処分してしまおうということらしい。あれには他にも各地の逸話が収録されているため、一つのお話だけでなく今回問題にならなかった別の物語が同様の事件を引き起こさないとも限らない。予防措置というやつだ。
 一応の解決はみたが、しかし解せない疑問はいくつもある。なぜ、霜野さんは呪いにより命を落としたのか。あの本に殺意自体はなかった。他の誰かが手を加えたか、別な呪詛が予め仕掛けられていたとしか思えない。日記を見ても特に前兆らしきものは書かれていなかったところから、彼女が呪いを受ける最初のきっかけも存在していない。だからトリガーがわからない。呪いには必ず原因がある。発動させるには何らかの条件がある。──なぜ、彼女は呪われなければならなかった? 逸話の夫婦のように、何も禁忌に触れていないのに。
 疑問は尽きないが、とはいえ解決したのだから、これ以上首をつっこむのは得策ではない。いい加減帰ろうと支度を始めると、ソファで寝っ転がってゴロゴロしていたお兄さんがちょいちょいと手招きした。またなんかろくでもないワガママを言うんじゃなかろうな、と警戒しつつ近づくと、彼はそっと抱きしめてきた。

「よくがんばったな。今回はお前達にとって、荷が重かったろ」
「……別に、僕は、何も」
「それでもだよ。えらかったな、龍樹。お前が良ければ、これからもあの愚弟を支えてやってくれないか」
「当たり前です! 僕以外の誰かに、この役目を譲ってやるつもりなんかない。報われなくたっていい、ただ傍に居られるなら……それで、構わない」
「そっか。ありがとうな。私はあの子にとって良き兄にはなれなかったから、お前がいてくれて嬉しい。……ほら、もう帰ってあいつに元気な顔を見せてやってくれ。きっと心配してるだろうから」
「……はい。あの、たまには師匠も勇次郎に会ってやってくださいね。あいつ素直じゃないから、はっきり言ったことはないけど、たぶん寂しがってると思うんで」

 と言うと彼はぱちぱちと目を瞬かせ、おぼこい子供のような、毒気のない顔を晒した。いつもの皮肉げだったりシニカルだったりしない、あえかな微笑みがゆっくりとその美貌に浮かぶ。ゆるく細められていた瞳は嬉しげにほころんでいて。この、弟が心底愛おしくてたまらない、と言いたげな顔を見たらきっと勇次郎だって少しは態度を和らげるだろうにと思う。

「……あいつが私を拒まないなら、いつかは」
「やれやれ。本当にどうしようもないな、うちの相棒サマは。大事な兄貴にそんなカオさせるなんて。あとできつく言っときますよ、後悔する前に行動に移さないとあとでしっぺ返し食らうぞ、って」
「ふふ、そうだな。しっかり言い含めてやってくれ。ありがとう、龍樹」

 エントランスまで見送るという彼にしっかり休むよう言いつけてからビルを出て、帰路に着こうとして僕はギョッとして足を止める羽目になった。さっきまで話題の種にしていた勇次郎本人が待ち構えていたからである。兄と鉢合わせするのが嫌で、近くで僕が出てくるのを待っていたらしい。本当に素直じゃないなこいつは。

「なんだよ。その顔。オレのことまじまじと見て」
「……いや、別に? なーんも? それよりお兄さんに挨拶していかなくてよかったのか」
「いいんだよ、あんなやつ! それにどうせ、今更会ったって喧嘩になるだけだろうし」
「それはどうかなあ。まあいいけど。それより腹減ったなー、どっかでメシ食おうぜ」
「お前が外食とか珍しいな」
「だってせっかく夢の中でファミレス寄ったのに何も食えなかったしさ。朝ごはんもまだだったし」
「……じゃあ、うちに来いよ。朝メシくらいならすぐ出せるから」
「もうすぐ夕方になんのに? こりゃずいぶん遅い朝メシだな」
「ゴホービだよ、オレからの。今日はお前が一番頑張ったからな。ありがたく受け取っとけ」
「……ありがとう。じゃあ、次は僕の番だね」

 夏を前にして、夕陽に染まる街並みは次第に賑わいはじめ、穏やかな西風が熱気を吹き払う。そのくせ斜陽のせいには決して誤魔化せない、頬の赤はなかなか消えてくれなかった。やっぱりお前はずるいやつだ。なんでもない顔をして一番欲しい言葉はいつだってくれるのに、わかんないフリが得意だなんて。

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