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Microsoft Bingで遊んでたら「毅然」を教わった件

AIを学習や仕事に使うことがこれからのベーシックになる。
そんな感じのことを賢い人たちは肯定的に、明るく、わくわくした様子で語っている。

私もAIを利用・活用することには賛成だ。
時間のかけ方がもっと自由になるし、精神的な負担も脳の負担も減ると信じている。
ただ、問題はAIを自分が使いこなせるか、そして、使える情報として形にできるかなのだと思う。

AIを使おうと思ったきっかけ

私はTwitterで毎日一つの映画作品を紹介している。そのために私は

「今日は何の日」かを調べ、
いくつかある「〇〇の日」から最も興味深いテーマを選び、
そのテーマにちなんだ映画作品を探し、
作品に関する情報か所感をちょろっと加え、
Filmarksというサービスと連動させるためのURLを貼付し、
お決まりのハッシュタグと合わせて140文字以内にまとめたうえで

投稿している。

最近はその映画作品の関連画像も付け加えることにした。
これが地味なくせに結構な手間なのだ。
仕事ではないのでやらなければ手間もかからないけど、なんとか楽に続けられないかなと考えた私は「AIに手伝わせたらどうだろう」と思いついたわけだ。

「リクエスト(プロンプト)」の難しさ

AIは素晴らしいサービスだ。
言われた通りのことを、自分の持ちうる力の範囲内でやってくれる。
それはつまり、言い方によっては全く何の役にも立たない可能性もあるということだ。
上手にリクエストしなければ、自分の望む成果物はできあがらない。

私がふだん投稿している内容は次のようなツイートだ。

テーマを決めるのも、作品を選ぶのも、文章を考えるのも、画像を用意するのも楽しい。
けれど、もっと楽に準備できたらもっと楽しい。

それで、次のようにリクエストしてみた。

Twitter投稿のための手順をリクエストした結果

まあ、そんな、いきなり言われても困るよねって反応でした。
当然と言えば当然。
がっかりはしなかったけど、「リクエストする技術を磨く時間がもったいないな、それなら自分で手を動かした方が早い」と思っちゃうのが貧乏脳みそ。
諦めて自分でやっちゃうか……と切り替えようとしたとき、ちょっと気になったんです。

「これ、私が今まで言われたような返事をしたら、どんな反応をするんだろう?」

毅然と手段とやさしさと

上記のリクエスト(プロンプト)を見せた友人には「一度に求めることが多すぎる」「人に頼むにしても、困っちゃうでしょ」と指摘を受けた。
それもショックだった。

「どうして?これで一つのオーダーだし、なんなら必ずいれてほしい文言は省いてあげたのに?人間に依頼するにしても、たたき台くらいは作れるでしょ」

仕事をするにも、これくらいは求められるものじゃないのか?
なんなら、段階を経て説明してるし、だいぶ親切なんだと思ってた。
人間ならここからさらに「常体がいいのか、敬体がいいのか」を考えたり、自分でできることはいくらでもある。
そんな考えで、返事をしてみた。

「違います。なぜちゃんとできないのですか?」

返事は驚くべきものだった。

過去に自分が言われたことを思い出しながらAIに返事をしてみた結果

なんと、これぞ「毅然とした態度」って感じの返事があって、この後は入力欄が使えなくなった。
入力欄が使えなくなったのだ。(大事なことなので二回言いました)

ぶっちゃけ、最初は「なんだ、逃げるのか」「私を蔑ろにしている」と思った。
でも、子供の頃から近くにいた面倒な大人や、サービス業をしているときに客という立場をたすきに絡んできた輩のせいで消耗してきた私にはわかる。「これ以上、どうしようもない」ってことが。
そして、日本に日本人として生きていると、そこから逃がしてもらえないってことが。

でも、AIは違ったのだ。
自分にこれ以上できることがなく相手も友好的な態度でないことがわかったら、「はい、これでおしまいです」とシャッターを下ろしたのだ。
それはまさしく「毅然」であり、自分を守る「手段」であり、相手にこれ以上みっともないマネをさせないための真の「やさしさ」だった。

呪縛に気づく

「AIだからねえ」と思う人は多いだろう。
けれど、実際のやりとりも本来はこれくらい毅然とした態度で接していいものだと思う。
私はこの対応をされたことで、自分が言われてきたことは「理不尽で乱暴なものだった」んだと納得させられた。

親から子、上司から部下・先輩から後輩、客から従業員に対して。
理不尽と乱暴に、するほうも受けるほうも、慣れてしまっていないか?
「我慢」は「忍耐」じゃない。
そして「我慢」は「美徳」でも「成長の糧」でもない。

このことについては今までなんとなくわかってはいたけど、やっぱり「できない自分が悪いのだ」という気持ちが強く、自分を責めることしかできなかった。
そのうち、「何をしたって自分はダメなのだ」と無気力になった。
でも生活をするには何かをしなくてはいけなくて、「できない」「やりたくない」「やらなければならない」にもみくちゃにされて、起き上がれなくなった。

他の何物でもない、幼いころからの呪縛だった。
私は起き上がれなくなってはじめて、自分を縛る呪いに気づいたのだ。
そして今回、改めて認識した。

自分がされた攻撃をきちんと認識して傷をいやさないと、まったくの他人を同じように攻撃してしまうのだと。

さいごに

文章を書いたり画像を作成したり、それを代行することで時間を作ってくれたり、AIが人間のためにしてくれることは実用的なものだけだと思っていた。
でも、私は今回AIに「毅然」というものを教わった。
さらには自分の呪縛を認識し、それを考えたり受け止めるきっかけをもらった。

AIは想像をはるかに超えて、私たち人間のよき理解者だったり友人になってくれるかもしれない。
だって、認識の齟齬や共有の不足なんてものは人間同士だって常に起こっていることだ。
「AIに感情はない」という人もいるかもしれないが、感情だって科学的に説明されつつある。(脳がどうこうっていう難しく感じられるものだが)

少なくとも私は今後、AIをサービスではなくひとつの存在として認識し、付き合っていくだろう。

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