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青い傘とパン屋さん

いつもと変わらない朝。小さな町の片隅にあるパン屋さんは、今日も新鮮なパンの香りに包まれていた。店主のマリコさんは、早朝から焼きたてのパンを並べながら、お客さんが来るのを待っていた。

その日、町は朝から雨が降っていた。しとしとと降り続ける雨の中、一人の青年が青い傘を差して店にやってきた。青年は少し俯きながら、マリコさんに会釈をして入店した。

「おはようございます、マリコさん。いつものパンをお願いします。」

青年の名前はタケル。彼は毎朝、同じ時間に同じパンを買いに来る常連客だった。マリコさんは微笑みながら、タケルがいつも頼むクロワッサンを袋に入れて手渡した。

「おはよう、タケルくん。今日も雨で少し寒いけど、パンが温かいから気をつけてね。」

タケルは少し顔を上げて微笑み返し、代金を払った。いつもと変わらない日常のやり取りだが、その日は何か違っていた。タケルがパンを受け取る瞬間、マリコさんはふと気づいた。タケルの目には、少しだけ涙が浮かんでいたのだ。

「タケルくん、何かあったの?」と、マリコさんは優しく声をかけた。

タケルは一瞬驚いた表情を見せたが、やがて口を開いた。「実は…大切な人と別れることになってしまいました。もう、この町を離れるんです。」

マリコさんは静かにうなずき、タケルの気持ちを察した。別れの悲しみと新しい一歩を踏み出す不安が、彼の表情に表れていたのだろう。

「タケルくん、これを持って行って」と言って、マリコさんは袋の中にもう一つ、焼きたてのパンを入れた。「このパンは、私の一番のお気に入りよ。新しい場所でも元気でね。」

タケルは驚いた顔をしたが、すぐに感謝の気持ちを込めて微笑んだ。「ありがとうございます、マリコさん。新しい場所でも、このパンの味を忘れません。」

タケルは青い傘を広げ、雨の中へと出て行った。マリコさんは、静かに彼の背中を見送りながら、心の中でそっと祈った。タケルが新しい場所で幸せになれるように。

雨が上がる頃、タケルの姿はもう見えなかったが、マリコさんの心には、小さな温かさが残った。日常の中にある、ささやかな優しさと別れが、町の片隅で静かに繰り返されていく。


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