2023-03-24の日記(多数派の論としての一般論についてと、思想の自由について)
僕は今まで一般論を「合理性、妥当性などの一般性(普遍性)によって全体に正しいと認められると考えられる論」という風な理解で使ってきたけど、昨日もっとシンプルに「多数派の論」という風な使い方をする人と話した。
僕はこの「多数派の論」としての一般論は議論の中では扱わない方がよいと思う。その理由は「多数派であることは正しさを担保せず、ポジショントークを増長させるだけであること」と、「全体が観測不可能である以上多数派が自分に有利なグループになりやすいこと」の二つである。
一つ目は、自分の意見を持つ場合に一般論を参考にすることの危険性がその例である。多数派の論とは何の正しさも担保しないのであるから、多数派がそうだから自分もそう思うとすることや、自分が思っているこの事はみんなも思っているんだから正しいとすることは、不当なことだ。
反論として「一般論は正しいとは思っていない、ただ多数派であるということを言っている」というものが想像できるが、そうだとすればさらに問題がある。そこではもう正しさなど二の次で、相手の意見が少数派であり特殊である、として例外のように扱っているということで、これでは対等で誠実な対話にならない。相手の意見が多数派か少数派かより、相手の意見が妥当か否かの方が大切である。対話においてそれが多数派か少数派かを持ち出すことは、多数派がなんとなく感情や雰囲気で自分を有利にしようとする以外の作用がほとんどない。
二つ目の理由について説明する。私たちにはそのままの意味で世界全体を見ることは出来ない。頭脳労働をしているひとはどうしても周りに肉体労働を下に見る人が増えるだろうし、肉体労働をしているひとはその逆だろう。そのように自分の観測可能なサンプルに偏りがある以上、少数のサンプルから全体を推定するということも出来ない。だから、私たちにとって多数派の論としての「一般論」は定めることが出来ないものである。無理に定めようとすれば、それは自分の周りの偏った意見をまとめただけの論であり、多くの場合それは自分に有利なポジショントークになる。
このような理由で、私は多数派の論としての一般論には価値がないしそもそも定められないと考え、「合理性、妥当性などの一般性(普遍性)によって全体に正しいと認められると考えられる論」として一般論という語を使っていこうと思った。
話は大きく変わって、今の道徳規範は「思うのはいいけど言動に移したらアウト」というものが共有されているように思う。どんな考えであれ、持っているだけでは悪にはならないという考えの人が多いように見える。それに対して、僕には結構、悪い考えというものがかって、それは持つことすら悪であるという感覚がある。だから、人の考えを聞いた後に「それは良くないと思う」と僕が言って「思う分には自由じゃないか」と言われ、話を先に進めるのが非常に大変になってしまうことが多々ある。
「思う分には自由だが口にするのはアウト」というのは、確かに妥当だと思う。こう思う人は「言わなくても思うだけでアウトなものはあるだろ」と思うのは自由として認めるが、口にするならば「人に自分の感覚を押し付けるな」という準備があるのもよくできている。
しかし、どうにも僕には考えにも良し悪しがあるように思える。これは多分伝わらないし、これじゃあ、お話にならない。
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