2023-09-03の日記(そっちが檻の中でこっちが檻の外かもしれないだろ!?)
心臓がさらに激しく揺れているのを感じる。嘔吐しようとしてから自分が吐き出すものを何も持っていないことを知る。吐瀉物は醜いが、吐き気を催しながら何も吐き出せない人間よりは醜くない。
だから書くことなど何も無いと言いながら日記を書く。
内側を夢見る。疎外感を受け入れる。
疎外感はどこにでもある。僕の好きなギャグに、檻に閉じ込められたピューっと吹くジャガーの主人公が「そっちが檻の中で、こっちが檻の外かもしれないだろ!?!?」と言うのがある。その通りだ。いつだって、そっちが内側で、こっちが外側の可能性はある。気の持ちようだ。
気の持ちようというのは、よくポジティブな意味で使われるが、そうも言ってられない。気の持ちようは生きていればある程度固定されてくる。
僕も23年生きてきたらしい。まだまだ短いと感じる人も多いだろうけれど、僕の気の持ちようはそれが気の持ちようを変えるのが難しくなるには十分長い年数だと考えるようになってしまった。僕はどこにいても酷く悪口を言われている気分になるし、胃の中には濡れた靴下のような感触がある。それはもう3年間も変わっていない。
あらゆるものに定着した疎外感に対抗するおそらく唯一の手段は、そもそも内も外もなく全て個だと信じることだ。そもそも僕たちは共通の認識をもったグループを構築することなど出来ず、そもそも僕たちは自分の思ったことを相手の思ったことには出来ない。
話は少し逸れるが、そうなると比喩は伝達の意味ではあまり意味を持たない。その文章の意味が伝わらないと考えた時に別の筋道を与えるために比喩は使われるが、その文章が伝わらないのは話者の発する文章、何なら単語のひとつすら真に同一の意味を共有できてはいないからであるんだから、伝達するために比喩を使うのは気の慰めにしかならない。
しかし、比喩は無意味ではなく、寧ろ伝達が不可能だからこそ意味があると思う。比喩を使う意味とは僕たちにとって伝達など不可能であることを分かった上でこそ発揮される。伝達が不可能でもそれを前提とした上で相手が何らかの具体に持つイメージを想像してコミュニケーションを取ろうとするその態度の提示こそ比喩の意味だと思う。僕たちは個だ。真の意味で「私」は「集団」には入れない。
だから、個である私はそれぞれの個を想像して、単一の話題ではなく複数の例に触れることで、少しでアタリの確率を上げようとしている。その態度にこそ意味がある。比喩が適当であるかどうかなどどうでもいい。それは結果でしかない。しかもハズレで当然の結果だ。僕たちに伝達なんか無理なんだから、比喩が適当でないなんて当たり前のことだ。だから、僕は比喩を使うという選択をしたという事実にこそ価値を感じる。
すべてを個だと考えると、こういう風に比喩を使う私たちだけが唯一の集団で、唯一の私たちだと思える。個と、全て。それがすべてのように思えてくる。
それは、寂しいことだ。ソフトバンクホークスが優勝しても福岡で安売りが行われることは無い。いや、ソフトバンクホークスが結成されることもなかったかもしれない。
僕は寂しい。だから僕は、疎外感を受け入れる。受け入れようとする。そしたら僕はいつか輪の中に入れる。そしたら僕はいつか僕たちと呼べる。そしたら僕はいつか。そしたらいつか。
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