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ヴォイスギャラリー秘宝感 秘宝その2
5月15日。本当なら葵祭の日ですが、今年はありません。
今回から、秘宝館あらため、タイトルを<秘宝感>とします。
秘宝その2
ポストカード(1985年頃)
撮 影:中林正巳
モデル:古橋悌二
ヴォイスギャラリーを始める前の1985年~1986年の14ヶ月間ほど、梁画廊が4階に持っていたRⅡ(アールツー)というアートスペースのディレクターをした。レンタルスペースとして、毎週火曜日から日曜日という短いサイクルの展覧会を次々とした。
その中に、京都芸大の後輩である中林正巳さんの写真展もあった。寒い季節でなかったのは確かだが、会期を忘れた。RⅡの資料箱を開ければ、そのときの案内状が見つかると思う。
個展の前に、市内の別のギャラリーでする展示を見ておいてと彼に誘われた。モノクロの耽美的な展示作品のことを、いまやすっかり忘れてしまったが、現在、額装して持っているポストカードになった作品も間違いなくあったはずだ。このポストカードは、切手面が白紙なので、個展の案内状だったのではなく、私は、ポストカードとして別に印刷されたものを購入したらしい。
モデルは、ダムタイプの中心メンバーだった古橋悌二さんである。当時、私は古橋さんとまだ直接出会っていない。彼らは、芸祭名物の<銀猫>というキャバレーを率い、数歳年上の私は<銀猫>を知らないが、<銀猫>は、ダムタイプや、後のクラブパーティーDIAMONDS ARE FOREVERの重要な接点である。
中林さんは、いつもうっすらと化粧していた。RⅡでは、彼のパートナーがモデルになった作品が多かった。中林さんは、「父に、男のお尻ばっかり撮らんと風景でも撮れ、っていわれた」と苦笑していた。夕方になると、真っ白なバラの巨大な花束を抱えた青年が来たりしたが、世間の青年たちと格段に雰囲気が異なっていた彼らの中に、たぶん古橋さんもいたのだと思う。
RⅡをやめてヴォイスギャラリーを始めた1986年の夏、ニューヨークに移住するのだ、と中林さんが伝えにきてくれた。
それから約10年後の1995年、9月から年末まで、私もニューヨークにいた。10月29日、サマータイムが終わる日曜日、古橋さんは京都で亡くなった。中林さんの体調がすぐれないと聞いていたので、せっかく近くにいるのに、ニューヨークではそれまで中林さんと会う機会がつくれずにいた。古橋さんの訃報を留守番電話に伝えたけれど、返答がなかった。中林さんは、その前の週に亡くなっていた。
11月に、中林さんのパートナーと、私と、京都から来ていた私の同居人と、同じく京都から来た中林さんの親友だった皆の友人との4人で、中林さんのアパートで焼肉パーティーをした。中林さんのパートナーが、いつか作品のまとまった展覧会がしたいねと言った。
10月は、才能あるゴージャスな2人の友人が亡くなった特別な月だ。
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