いいよ


何回言ってしまったんだろう

いいのか良くないのか
判断もできないまま
どれだけ生暖かい優しさに溺れれば
私は私になれるんだろう






本当はわかっている
いいわけないことを






なんにもなかったような顔して
なれない朝の街を
地面とにらめっこしながら
かろうじて足を進めていく

昨日の自分と向き合って
どうしようもないなーって笑う


別に悪くもない
暖かいことは居心地がいい

誰とでも手を繋いで生きていれば
幸せな世界なら良かった


どうしてひとりの人間と繋がりたいと思うのだろう
そもそも人類はポリアモリーじゃないのか?
モノアモリーなのか?


いや別に正直そこは性的指向なのでどうでもいいんだが


とられたくないとおもう嫉妬とか束縛とかはすくなからずあるはずなのに子孫繁栄のための手立てとしては合理的ではないよなあ

そもそも親からの無償の愛と一般的に言われるような
つまり愛着、アタッチメントが良好ならば
愛されているという安心基地をもって育った経験があるはずで
誰か特定の人間とのつながりというものが
あえていうと"普通"になるのだろうか


結局血が繋がってようが他人なんだよ

アタッチメントが良好に築かれなかった場合
代替手段として恋愛関係とされるものが擬似愛着になることは明らかにされているし
軽度ならば稀にある事なのだろうけど





重度になってくると愛着障害的な病的な所から2次障害も生まれてくるわけで
格段に生きにくくなる



生きてるだけで愛されたい
息しているだけで愛されたい

無償の愛が欲しかったのかな





本当はきっと誰よりも死にたくて
誰よりも生きたかった
誰よりも気づいて欲しくて
わかっていて何も言えなかった





だから
誰かの中で生きていたい
私が消えても私の一部が誰かに残りますように


いいよ

あなたが今だけでも愛してくれるなら
今だけでも必要としてくれるなら
生暖かい優しさでもその時だけの優しさでも

そう思っていた


はずなのに
私を愛してくれる人が信じられなくなったんだろう

心理的用語で
蛙化現象というものがある

好きだと気持ちを向けたのに
好かれると
自己肯定感が低すぎるが故に

なぜこの人は私のことが好きなのだろう
理解できない

となる

そこでやっと

この人は友達として好きなんだなぁと
解決をしたり

あるいは
騙されているのでは

と思ったりするわけである

人間とは難しいもので
できなければ悪い子だと責め続けられた人間には
そう簡単に愛され暖かい環境におかれることには順応できないらしい
嫌われる
すてられる
信じられない



なんでって




自分はだめだから

そうずっと植え付けられてきたから

だから試す
どこまで嫌なことをしたら
この人は私から離れていくのだろう

なんて面倒くさいのだろうか
こんな思考回路はどうして出来上がるのか


承認欲求の塊だなぁとは思うが
要は褒めて欲しい、認めて欲しい
かわいいよいいよ、かっこいいよ、素敵だね


6年勉強して国家資格をとってもまだまだ何も分かりません

よかったら
いい子じゃなくても
愛してください
明日も
生きてていいよって
欲張りだから
きっとみんなに言われたい
明日も僕が生きていますように


でもね、反省はしても後悔はしないよ
今を生きていくのが
私だから


きっとまた言うんだ

いいよ

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