見出し画像

誕生日に思うこと。

今日は誕生日。
48歳になりました。

48年前の今日、生まれたわけですが、
予定日より1ヶ月早く
超未熟児で誕生したそう。

母親が妊娠中毒症で
救急搬送されて
帝王切開で取り出された私。

母子手帳に
‘‘ 仮死状態 ‘‘ と書かれていました。

当時の医療では
助からないだろうと言うことで
私は放置されていたらしい。
( 本当らしい )

とにかく母親の命をと言うことで
「子どもの方は諦めてくれ」と
説明されたっぽい。

父親は
何処かに飲みに行っていて
携帯電話もない時代で
なかなか捕まらず
その辺の詳細は
薄ぼんやりとされているので
きっと娘には言えない事情が
あったのでしょう。

私の伯母は
「妹(私の母)が目覚めたら、
子ども(私)が
助からなかったことを、
どうやって伝えよう…。と
そればかりを考えていた。」
と振り返ります。

一旦、いないことになっていた私ですが
母親が一命を取り留めたことで
「あぁ、赤ちゃんは?!」と
なったかどうかは知らないけど
仮死状態で放置されていた私は
その後
自力で呼吸をして泣いたそうです。

覚えてないけどね。

1500グラムぐらいまで
体重が落ちたらしく
自力でミルクが飲めないので
たくさんチューブに繋がれている写真は
木から落ちたお猿の赤ちゃんみたいです…。

「小学生の間くらいまでは発達が遅いかも」
と説明を受けたらしいけど
その後、すくすくすくすく育って
1歳で平均体重に追いついたのは
母親の武勇伝として
100万回聞かされてきた。

まぁ、そんなドラマチックな
誕生を果たした私。

もちろん覚えてないし
その話は聞き飽きるほど
聞かされてきたので
「いやぁ、助かって良かったぁ。
 せっかく助かった命だから一生懸命に
 生きるわ!!お母さん!」
と、ならなかったんですね。

命が助かったありがたみや
命がけで産んでくれた
母親に対する感謝よりも

「その話しは100万回聞いた!!!」

って感じで完全にスルーです。

世の中の父母や偉い人。
‘‘ 武勇伝 ‘‘や ‘‘ 良い話 ‘‘ も
ほどほどにしておかないと
こんな風にありがたみが
半減するどころか
‘‘ うざい話 ‘‘ になってしまうので
気を付けましょう。

とは言え
こうして改めて文章にすると
ドラマチックな誕生ですね。

ここで
「だから私は一生懸命に与えられた命を
 生きます!」
と締めくくると良いのだろうけど
それもなんだか
照れくさい。
( どーゆう感情? )

誕生日と言うのは
ある意味では運命なのかもしれないけど
ネイタルチャートに出ている以外のことは
起こらない。

それを
今世で体験していくために
自分で設定して生まれてきていると思う。

困難も喜びも。

もちろん
そこには宇宙のしくみや
生命の神秘もあるけれど
自分の瞳に映っているものは
紛れもなく自分が起こしたこと。
自分が創ってきた現実であることは
間違いないと思う。

これは
たくさんの方の
出生のホロスコープを読み
ひとりひとりの人生に触れてきたから
言えること。

私がしつこくしつこく
「自分を生きる」
ってことを
訴えているのは
出生のホロスコープに書かれたことを
現実で活かすには?を考え、
実際にやっていくこと。

その
お手伝いをするのが私の仕事。

この仕事を通して
私自身の「私らしさ」を
追求するんだろうな…。と
自分のホロスコープを見ながら
感じています。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?