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何かに憧れずには生きていけないのかもしれない

チャイムの音で目覚める。なんだか胃が重くて、深夜にノリでカップラーメンを食べたことを思い出す。よろよろと扉をあけ、荷物を受け取る。ランコムのファンデーションだった。連休初頭、実家で夜な夜なインターネットで調べて注文したやつだ。母親に「早寝するほうがよっぽど美容にいいけどね」などと言われたが無視した。そりゃそうだけど、そういう問題じゃない。夜更かしして高価な化粧品をポチりたいときもあれば、カップラーメンを食べたいときもある。美しくなるために生きているわけではないのだから。


「文藝 秋号」の続きを読む。

「世界の作家は新型コロナ禍をどう捉えたか」という特集に川上未映子が寄稿している。コロナ以前にもたくさんの許すべきではないことがあったけれど、私たちはそれらに気づかないふりをしたり、なんとなく忘れてきてしまった。それがコロナで顕在化したということではないか。この災厄をきっかけに考えていかなくてはならない。という要旨。

ちなみにウェブで全文無料公開されている。

「花がより美しくみえる」川上未映子

で、その内容自体はいいんだけど、私が気になったのはタイトルにもある花の例え話。

「花がより美しくみえる」と感じるのは罪ではない。しかし花は、本当は昨日も、去年も、五年前も美しかったのだ。

え? 本当にそうだろうか? 花はもともとただの花で、美醜を持たないのではないだろうか? 美しく「みえる」のは私たち側の問題であって、花がもともと美しいわけではないだろう。考え方の問題といえばそれまでだが、彼女が昔どこかに書いていた「人類が絶滅したとして、誰も見ていなくても、夕焼けは美しいのだろうか」という旨の文章をずっと大事にしている私としては違和感があった。

絶対的な美が存在するという考え方を、今のところ私は受け入れられない。花はもともと美しさのためではなく、生きるために咲いていたし、生きるために種を飛ばしている。だからこそ美しい(ように私たちにはみえる)。



岸政彦と柴崎友香の大阪エッセイが今号で最終回だった。ふたりとも大阪出身。関係あるのかないのかよく分からない、脈略のなさが共通点という気がする。それも大阪性のようなものと関係しているのだろうか。

ちなみに岸政彦と川上未映子の文章も似ているように思える。文体というより、過ぎ去った人生の取り返しのつかなさに夜な夜な泣いていそうなところが。どちらかというと岸政彦のほうが泣いてる感じがする。いま気づいたけど川上未映子も大阪出身だ! 関係あるのかな?


岸政彦のエッセイ「散歩は終わらない」。酒を飲んで眠れなくなると夜な夜なひとりGoogleマップをひらき、ストリートビューで知らない町を歩くという話。とくにその町のスナックを検索するのが好きだそう。

どうして私はいつも、知らない街の知らない路地裏の、知らないスナックや寿司屋の看板に、これほど憧れるのだろうと思う。
大阪の街の、蒲生や今里や住之江を歩いても、いつも思う。ここで生まれて育って、ここで暮らしていた人生もあっただろうかと。日本海に面した東北の小さな港町をGoogleマップで歩いていると、それをさらに強く思う。ここで始まり、ここで終わった俺の人生もあっただろうかと。


そういえばつい先日、Facebookの物件アプリの広告で流れてきた、青森の小さな港町にある、洋風の大きな家に猛烈に惹かれたことがあった。


これらの画像とともに「死にたくなったらみんなでここ住もう」とツイートしたのだった。冗談といえば冗談だったけれど、その日はずっと、この家にインターネットのみんなと本当に住むことを考えていた。私はどこの部屋で寝ようかなとか、誰と一緒に住もうかなとか、家賃はどうしようかなとか。月7.3万円だから、何人かで折半すれば、もしかするとライティングの仕事だけで暮らせるかもしれない。それはそれで素敵だ。

青森の妄想に飽きたら、九州地方に大きな一軒家がないか延々と探していた。暑い時期は青森に住んで、寒い時期は九州に住めたら最高かもしれないと思い至ったからだ。いつだって東京が大好きだったのに、心と胃腸が弱っていたから、こんなことを数日考えていたのだと思う。

こんなツイートもしていた。

引越しの予定はないけど、永遠に物件しらべてる。物件というか、あるかもしれなかった人生をしらべてる。


岸政彦はこの感覚を、私たちは現在の自分に憧れることができないから、いつも他人になりたいと憧れる、と解説している。わかる。自分の人生が幸せであるかどうかとは殆ど無関係に、あったかもしれない別の人生に思いを馳せてしまう。

たぶん歳をとるとさらに取り返せない部分が増えるから、私は今以上に物件検索をする中年になるだろう。夜な夜な化粧品を検索している今は、まだ未来の未知なる自分への憧れが強いが、その憧れが薄れれば、夜な夜な物件アプリやGoogleマップを見て、あったかもしれない人生に強く憧れるだろう。マジで。そうやって何かに憧れないと私たちは生きていけないのかもしれない。


エッセイを読み終わり、ふと気になって青森の物件をGoogleマップで調べると、間取りでは「多目的ホール」と書かれていた場所が「和洋菓子屋きむら」だったことがわかって、なぜか泣きそうになった。

死にたくなったらみんなでここ住もうね。それまでは生きよう。

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