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山はくずれ、海におぼれ、ここに日がのぼる

久しぶりにビートルズを聞いて、この街を歩いていた。待ちあわせ前にいつも本を読んでいたサンマルクカフェはまだ暗く、初デートで口説かれたバーは階段上の看板を片付けているところだった。酔っぱらうといつも立ち寄って水とコンドームを買ったセブンイレブンを左に曲がると、朝の呑気な住宅街が伸びている。

Here comes the sun
Here comes the sun, and I say
It's all right

昨晩久しぶりに受信したメッセージは「好き」という二文字だった。「会う?」と返す。「明日は一日空いてるから何時でも」と言う彼に「じゃあ朝起きたら行っちゃうね」と送った。たぶん彼はあのあともお酒を飲んでいただろうから、まだ起きていないと思う。

返信がないので電話するとすぐに「いま起きた、ごめん」という吹き出しが画面に出現した。
「マンションのまえまで来ちゃった」
「チャイム鳴らしていいよ、寝起きだけど」

オートロックのパネルの前で、そういえば何号室だったかなと迷う。いちかばちかで502を押して俯いていると、自動ドアが開いた。彼は何も言わず、私も何も言わなかった。

半年ぶりの部屋は少し散らかっていた。洗面台の歯ブラシは何本か増えていたけど、女の子と暮らしてはいないようだった。それくらいは部屋を見れば分かる。

シャワーの音を聞きながら本棚に手を伸ばし、読みかけにしていた本を取る。赤い紐のしおりを引っ張りあげて、読みはじめるも、これまでのあらすじを忘れてしまっていた。それでもそのまま読み進む。いつもセックスのまえに読んでいたけど、まだ上巻の真ん中あたりだ。いつか読み終わったとしても、断片的な記憶だけが残るだろう。それはそれでいい。

やがてシャンプーの匂いをまとった彼がソファの右隣に腰かけて、私の本を取り上げてローテーブルに置き、テレビをつける。たぶん色々と好きな音楽があるんだろうけど、彼は私が来るといつもビートルズのミュージックビデオを見せる。初めて会った日に私がその歌詞を引用したからだと思う。

ソファに座ったままローテーブルの水を飲むために腰を屈め、また体を背もたれに戻すと、彼の左腕が待ちかまえていた。私の肩を抱き、それから髪を梳かす。久しぶりだからか、わずかな緊張が伝わってきて、私は初めてこの部屋に来た夜のことを思い出していた。


初デートの夜、「うちおいでよ」と言われて迷い、「今日は帰ろうかな」と断って電車にもやもや乗ったものの、最寄駅に着いたところで「ごめん、やっぱり行っていい?」とメッセージを送り、逆方向の最終電車に飛び乗った。ビーチサンダルを履いて駅まで迎えに来た彼は「失恋したと思って友達呼んでパーティーしてたんだけど、全員急遽カラオケに行ってもらった」と笑っていた。

あの夜もこうして、テレビ画面を見ながら私の髪を長いこと撫でていた。ビートルズの歌詞とか、彼らの髪型とかについて話して、もう寝ようか、というタイミングで、やっとキスしてくれたのだった。


彼の唇は女性器のように柔らかく、湿っている。私の薄い唇がそれに含まれる。この人の顔を忘れることがあっても、この唇の感触を忘れることはないと思う。

ソファの上で私は徐々に崩されていく。脚は放り出され、腰はくだけ、下着はずらされ、髪は乱れ、口紅は落ち、アイシャドウのラメは散り、意識がなだれていく。まるで山が切り崩されていくようだ。

やがて二つの山はなだらかなひとつの丘になる。

どうやって脱がすの。あ、横にファスナーがあるんだ。これ着てくるの初めてじゃないの。かわいいね。彼はいつもうれしそうに私の服の脱がせやすさについて言及する。キスをしながら私の長いスカートの中を探って下着をおろし、広範囲に渡るぬかるみにふれ、ああ、と言った。

丘は海にのまれていく。

「ねぇ、溺れてるみたいじゃない?」と言うと彼は少し微笑んでまたキスをした。いつもは雄弁な男なのに、挿入中はあまり多くを話さない。薄く眼を開けると、3cm先の眼も私を見ていた。長い睫毛にうっとりしているうちに、彼は「つかまっててね」と私の手を自分の首にまわし、また体位を変えた。正常位から座位、騎乗位をすると必ずバック、また正常位に戻る。

「ああ、ごめん、久しぶりだから、もう」
この人は射精するときくらいしか謝らない。うん、いいよ、大丈夫、と頭を撫でると思考を失った舌が私の顔を荒く這う。頭が急激な快感に満ち、後頭部の先が本体から離れていく。体と意識のあいだ、私たちの関係、運命、陶酔、音楽、すべてに溺れる。ふたりで。ふかく。


Here comes the sun
Here comes the sun, and I say
It's all right

つけっぱなしのミュージックビデオを、まどろみの中で聞いていた。ジョージ・ハリスンが春の日差しの中で散歩しながら作った曲だ。目を開ける。彼はベッドの隅に腰かけ、ひらけたベランダに向かって煙草を吸っていた。まぶしい。朝はほとんど昼になっている。私は男の丸まった背中に擦り寄り、乳房を押し付ける。暑くも寒くもない、裸がくっつくのに最高の気温。イッツオーライ。下手くそな英語で歌う。「ねぇ、久しぶりに駅前のイタリアン行かない?ドレッシングがおいしいの」。いいね、と彼は気だるそうに言った。

#日記

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