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『限りなく透明に近いブルー』を読んでいたころ

『限りなく透明に近いブルー』を読んでいたころ、私は元々短めのイーストボーイのスカートを腰で1回折っていた。たまに2回にすることもあったけど、基本は1回が自分にちょうどいいという暫定的な結論があった。グレーのチェックに一本細いピンクが入っているスカートが一番のお気に入りで、他にネイビーを持っていた。

『限りなく透明に近いブルー』を読んでいたころ、私は彼氏と別れたばかりだった。中学の同級生に卒業式の後の勢いで告白され、しばらく付き合っていたが、高校のあまりの楽しさに彼と地元で会うのが面倒になって別れを切り出したのだ。

自分の勝手な都合で別れたくせに何となく傷ついた気がして、彼の好きだった黒髪セミロングヘアをバッサリ切った。当時はクラスの女の子の多くが茶髪だったから、クラスの男の子にも「黒髪いいね」と褒められていたのだが、男の求める「黒髪」に「おしとやか」が含まれてる感じが突然ウザくなって、ドラッグストアでヘアカラーを買ってきて風呂場で染めた。泡で染めるタイプが出始めたころだった。

『限りなく透明に近いブルー』を読んでいたころ、隣の席の岸本くんと仲が良かった。「いつも喋ってるけど、岸本くん好きなの?」と友達が言ってきたので「そういうんじゃないよ」と返したけど普通に好きだった。彼はサッカー部、明るくてムードメーカー。先週の体育祭では終始上裸で騎馬戦のリーダー、みんなの紅白帽を取りまくっていた。普通にこういうカッコいい人を好きになる。

岸本くんは意外と本や映画も好きで、よく「いま何読んでるの?」と話しかけてくれた。「限りなく透明に近いブルー」と答えると、「なんか珍しく爽やかな感じ」と笑ってたけど、そんなことはない。当初案は「クリトリスにバターを」だったんだよ、とは言わなかった。さすがに露骨すぎて改題したらしい。

「全然、爽やかじゃないよ、気づいたら黒人とエッチしてて、また気づいたら別の白人とヤってる」この小説を一言で表すならばこうなる。「何それ、どういうこと?」と岸本くんは驚いていたけれど、その時はうまく説明できなかった。あとセックスという言葉を異性に使うのが恥ずかしくて、何と言えばいいか分からなかった。

この小説の最もおかしいところは、誰かが登場したり去ったりする説明が抜け落ちているという点にある。だから気づいたら「僕」は「黒人女」とキスしているし、「露出させた僕のペニスを這ってきたケイが握り、しゃあんとしな、リュウ、しゃんと、と声をかけ」られるし、黒人女に背面騎乗位でイかされたと思ったら、「ジャクソンが歌いながら僕の顔に跨る、ヘイベイビイと平手で頬を軽く叩きながら」。

数学の授業が終わり、英語の授業に入り、それが終わって現代文の授業に入っても、先生の話は全て無視してこの小説を読んでいた。物語は粘液の混濁したドラッグとセックスの世界から「リリー、鳥が見えるかい?」というリュウの幻視を通り、自傷行為に使ったガラス片の限りなく透明に近いブルーに抜けていく。

読み終えたのは午後の日本史の授業だったと思う。高揚感のさめないままに本を閉じると、岸本くんが資料集を読み上げるように先生に言われていた。日本史のつまらない授業はいつも通りつまらなく進んでいて、こんなに最高の本に出会っても、世界はこれまでと地続きなのか、と衝撃を受けた。

今はもう売ってないと思うけど、当時は村上龍が描いたリリーの横顔が表紙になっていた。「リリーへの手紙」と題したあとがきにも「小説を本にするという話があった時、装幀をやらせて欲しいと頼んでみた。だって俺はこれを書きながら、もし本にできるならリリーの顔で表紙を飾ろうとずっと思っていたんだから」とある。このストーリー性のある表紙が好きだったのだけど、ずっと後に男と一緒に住むことになった時、インテリアにジャマだからとカバーを捨ててしまった。

『限りなく透明に近いブルー』を読んでからというもの、それはもうたくさんの本を読んだ。1年に300冊とか、それくらい。文章を追い、呼吸のリズムに飲まれ、どこかの世界に連れて行かれるのが楽しかった。

あまりにも本を読むので「すごい」「作家になれば?」と大人たちに言われたが、私はそれに対して「何言ってんの?」と思っていた。すごくなんかない。オナニーやセックスをしてるのと同じだから。あと作家にはなれない。読めば読むだけ、自分の凡庸さを知るだけだった。でもそれは決して悪いことではなかったと思う。

『限りなく透明に近いブルー』を読んでいたころ、物語に比べて日々はあまりに凡庸で、それでいてキラメキに満ちていた。スカートの長さを変えれば、髪の色を変えれば、何か少しでも自分や世界が変わると思っていた。物語が好きだからこそ、私は一つひとつのキラメキを見逃さないようにしていた。いつか今日のことを書く日が来るだろう。その時のために、この感じ、覚えてなくちゃ、そう思っていた。

#小説

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