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「普通」という価値観について

誰にでも個性があるので、本来は「普通」というものはないと考えています。「一般的=常識的」もしくは「大多数」のことを「普通」と表現してるのは分かりますが、一般的・常識・大多数というカテゴライズは、時代や環境、視座などによって簡単に入れ替わるものです。

誰にでも個性があって、似てる人はいても同じ人はいないのに、「普通」という価値観を押し付けてくる人がいます。

「普通」という言葉を使って価値観を押し付けるのは、相手を服従させたいのではなく、異質なものを排除しようとする本能によるものだと、私は考えています。

異質なものを排除するのは社会秩序を守るためでしょう。それは種の存続という視点では、それほど間違っていない戦略だと思います。

「普通」という言葉で「皆と同じ」を強要する行為は、一見、理性的に感じますが、私には非常に野蛮で原始的なものに見えます。本能に支配されていませんか?と。

同時に、そういう方は「個性」というものの概念に乏しい可能性が高いと考えています。
自分にもあるはずの「個性」を、教育を受ける過程で見失ってしまったのかもしれません。

例えば、学校の先生。彼らは二言目には「普通」を押し付けてくるけど、先生達は先生ごとに個性があります。結構クセが強い人もいますよね。

私は(これも中2の時ですが)先生達にも個性があることに気付いて、気持ちが楽になりました。

とても面白い化粧をする先生に怒られている最中、「普通はこうだろ!」と言われて、笑いを我慢できませんでした。その化粧は普通なの??見たことないけど!!なんて考えが頭をグルグルしてしまって、笑っちゃたんですね。笑ったせいで更に倍で怒られました。

別の先生に「あの先生の普通は本当に普通なのか疑問だ」と訴えたところ、「その着眼点は絶対に忘れるな」と言われました。それが私の個性だから失くさないようにと。

転校した小学校で否定されたもの(*小学生の時のこと ご参照ください)を、また認めてくれる人が現れて、とても嬉しかったのを覚えています。
だけど、他の先生の悪口を言ったのに褒めてもらえたのが意外だったので、理由を考えました。

転校後の担任 vs 転校前の先生+中学の先生

私への評価が正反対なのは、先生の個性が原因だと気付きました。私という対象物は同じだけど、受け手の個性によって評価が変わったのだと。

受け手の個性は対象物への視座の違いに現れるということです。これは視座によって長所と短所も簡単に入れ替わるということに繋がります。
このことに気付いてから、とても気が楽になりました。誰かに嫌われても、誰かは好いてくれるということですから。

それと、私の個性や感性を否定する人は、当人が自身の個性に無頓着なことが多い、ということにも気付きました。

「普通」を押し付ける人達も、一人一人を観察すれば個性があります。自分の個性に気付かないのは、非常にもったいないことです。

「普通はこうでしょ!」と価値観を押し付けられると、鬱陶しくて不快になりますが、そこで価値観を衝突させては双方が疲弊するだけで無益です。

私の経験上、自称「普通の人」の「普通」に隠れた個性を見つけて教えてあげるのが最善策です。
こちらから見れば、あなたも充分に個性的だと。普通なんて言葉で個性を潰さないで、と伝え続けて共存を模索します。

個性について真剣に考えれば「普通」なんてものは存在しないことに気付きます。いつか全ての人が自分の個性的な部分に気付いて、それを潰したくないと考えるようになれば、自分の個性を守るために他者の個性を尊重する風潮に変わるのではないかと期待しています。

今「普通」というものから少し外れた人。普通という価値観の圧力に負けないで欲しいと思います。

圧力に負けない人。いわゆる普通の人にも個性があります。相手を見下して対立せずに、本人が見失ってしまった個性を見つけてあげて欲しいと思います。